◆ ロマ書の学び(72)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年一〇月二四日号
         ▽ み言葉を生きる

 

然(さ)れど我等がなお罪人たりし時、キリスト我等のために死に給いしに由りて、我らに対する愛をあらわし給えり

            ロマ書五章八節

  私たちは神様が私たちを愛してくださっているという確かな証拠を見ることが出来る。それは最も大きな犠牲を神様が払い、御子イエスを十字架につけて私たちの罪の身代わりとして下さったということである。旧約聖書のイザヤ書には「我らは皆、羊のごとく迷いておのおの己が道にむかいゆけり」と書かれている。

 人間は自分勝手な道を歩んでいるのだ。にもかかわらず神様は私たちを救うために御子イエスをこの世にお遣(つか)わしになり、十字架を背負わせて下さった。その結果、私たちは、十字架につけられたイエス様を仰ぎ見る時に、一度も罪を犯したことがないのと同じように扱われるというのだ。決して私たちは聖人君子になる訳ではない。

 人生の様々なところで私たちは間違いを犯(おか)す。けれども神様は私たちの罪汚れに対し、「またやった、またやった。」と罪を追いかけ回すお方ではなくして、イエス様の十字架をご覧になって許してくださるのである。イエス様が十字架上で流してくださった血潮によって、私たちが神様の前において正しい者とみなされ、神様の家族の一員として、神様の子供として扱われる。まして、イエス・キリストによって神の怒りから救われないはずがあろうか、ということだ。私たちは、イエス・キリストの十字架の死によって神様がどんなに私たちを愛してくださるかを知ることが出来る。

 私が高校生のとき、NHKのラジオ英会話の勉強をしていた。その時、日本中あちらこちらでラジオの聴取者の会ができて、一番多い時期は北から南まで一六〇〇ほどの英会話のサークルが出来た。後に私はそれをリードすることになる。東京の小松川高校で千数百人を集めて私は聴取者の会を開いた。

 当時、宣教師であれば良いクリスチャンであると思っていたので、分らないままGHQのトップに会いに行ったり、宣教師が居るところはYMCAと思い、行ってお願いした。その時快く引き受けてくださったGHQの民間情報局長は女性だった。YMCAからは宣教師のリーパー夫人が来てくださった。女学校を借りて英語の指導を短くやってもらった。二、三年たって北海道と青森を結ぶ青函連絡船洞爺丸が沈没した。新聞に大きく出た記事にリーパーという宣教師が亡くなったということで、私はあのリーパー夫人のご主人だなと思った。確かにそうだった。

    (続く)


◎ 暗誦聖句 レビ記一九章三一節
汝等(なんじら) 憑鬼者(くちよせ)を恃(たの)むなかれ、卜筮師(うらないし)に問(と)うことを為(なし)て 之(これ)に身(み)を汚(けが)さるるなかれ 我(われ)は汝(なんじ)らの神(かみ)エホバなり


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