◆ ロマ書の学び(73)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年一〇月三一日号
         ▽ み言葉を生きる

 

 洞爺丸が沈没するときに、多くの人たちが我先にボートに逃げようとしたが、リーパー宣教師はそばにいた人に「私は死んでも行くところがあります。私の行くところは決(き)まっています。私の代(か)わりにボートに乗ってください」といって船と一緒に沈んでいったというのだ。後に助かった人がこのことを報告した。一人の宣教師が一人の日本人の命を救ったというのなら、まして、イエス・キリスト、罪汚れのない方があなたのために死んでくださったという命の恩人のイエス様に自分のすべてを捧げる気持ちはないだろうか。

 イエス様は、私たちを滅びから救ってくださるだけではない。船が難破して溺(おぼ)れそうになった人を助け上げた救助船がするように、彼を海から引き上げただけではなく、暖かな衣服と温かな飲み物と寝る場所を与えないはずがあろうか。もし皆さんが仕事で挫折(ざせつ)するとき、あるいは病気で意気消沈するとき、心が砕かれた時、心にこの「まして」を思ってほしい。

 イエス様は私が永遠の亡びを刈り取ろうとする時に命を捨ててくださり、復活(よみが)えってくださった。まして、私が今また奈落(ならく)の底に落ちようとするときに神様が救ってくださらないことがあろうか、絶対にありませんということなのだ。

 「まして」ということは、神様が真実な、アーメンな方であるから、ましてその約束を守らないはずがあろうかと自分自身に問いかける訳(わけ)である。神様は私を亡(ほろ)びの中から救ってくださった、そして、私を信じるものは死ぬとも生きるとおっしゃったとするなら、ただ心の悩み、苦しみを聞いてくださるだけでなく、私が食べ物に困っているときに、まして人間の体を維持するための食べ物を下さらないはずがあろうか。

 私たちは心の中に迷いが出ると神様から離れてしまう。その時に思い起こしてほしい。「私はイエス様を信じた。そしてこれまで教会生活をしてきた。神様は私に信仰の喜びを与えてくださった。にもかかわらず、私は神様からだんだん心が遠のいてきた。けれども一度私を滅びから救い上げてくださった方は、私が神様のもとに戻ることを喜ばれないはずはない。

 私が、神様、助けてくださいと叫ぶのに助けてくださらないはずがあろうか。」と自問自答するのだ。その時大事なことは「まして」ということである。

 聖書の中で使徒パウロが使った大事な言葉が二つあると思う。一つはロマ書三章にある「しかし」。そして今勉強している「まして」である。 

    (続く)


◎ 暗誦聖句 マタイ伝七章二九節
それは学者らの如(ごと)くならず、権威(けんい)ある者のごとく教 え給(たま)える故(ゆえ)なり。

 


本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。