◆ ロマ書の学び(74)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年一一月七日号
         ▽ み言葉を生きる

 

 私は罪深い人間である。しかし、イエス様は私を愛して下さり、罪から引き上げて下さった。私は罪の重荷を背負ったどうしようもない、箸にも棒にもかからない人間である。しかし私が十字架を見上げるときに私を救って下さる。

 私は今食べる物が、着る物が、お金がない。しかし、神様は空の鳥を養って下さり、野のユリを見よと仰せになった。まして万物の霊長といわれる私を神様が引き上げて下さらない筈(はず)がない。これが信仰である。

  信仰というのは、七面倒くさい議論をするものではない。「偉大な人物は単純な信仰の持ち主だ」とジョウンズ博士がよく言われた。信仰は本当に単純なものである。私の信仰生活は、年を経るにしたがって段段シンプルになり、余分な飾りがなくなってきた。本当に神様の一つ一つのみ言葉があれば十分という状況になってきた。

 若い頃は悩み、あれやこれや沢山の注解書を読み、学べば学ぶほど混乱するばかりであった。けれども、ロマ書を勉強することにより、本当に濡れ紙をはがすように神様の奥義がどんどん分ってきて、飛び上がらんばかりの喜びに満たされたのである。今でもロマ書を勉強すると心が躍る。皆様にもその喜びを味わって頂きたい。

 ロマ書五章に「まして」という言葉が何回あっただろうか。若い人は、サッカーチームやテニスクラブ、あるいは野球チームに入りたい時、色々おねだりしたことがあったと思う。お父さんが、「野球チームに入ったのか。今度ユニフォームとミットを買ってやろう。」と言ってくれた時、あなたの手元にボールがなかったらどうするだろうか。高いユニフォームと上等なミット、あるいはグローブを買ってくれたのだから、ましてボールを買ってくれないはずがあろうかと思うだろう。上等なグローブがあっても野球はできないのだから、ましてボールを買ってくれないはずがあろうかと考えるのだ。

 神様が私たちの命を救って下さった。まして毎日必要な健康のこと、食べること、寝るところあるいは自分の将来のことなどに対して目を留めてくださらないはずがあろうか。決してないのである。

 以前、ヨーロッパの貴婦人たちは、宮廷でパーティーやダンス・パーティーがあると、竹で造った輪をスカートに入れていた。どうして裾の広がったスカートをはいたのか。本当かどうか分らないが、香水で有名なある国の宮廷は、立派な御殿、宮殿があるのにどこにもトイレがなく、宮廷の前の庭で用をたす時に、あの竹の輪の中でちょっとしゃがんだと、何かで読んだ記憶がある。

 皆さんが家を建てる時に、居間、書斎、台所が必要だといってお金をたくさん使う。まして、絶対必要なトイレを作らないはずがあろうか。     

    (続く)


◎ 暗誦聖句 エレミヤ記八章二〇節
刈り入れの時はすぎ夏も はや終りぬ、されど我らは いまだ救われず。
 


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