◆ ロマ書の学び(75)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年一一月一四日号
         ▽ み言葉を生きる

 

 いくらか「まして」の意味が分っただろうか。以前、私が神学校で学生に将来、教会建設をするだろうからと、 教会の設計図を何度か描かせた。そうすると、大体落とすのがトイレであった。不思議である。献身して神学校に行き、牧師になろうとする人に教会の図面を描かせると、まず立派な礼拝堂を作り、次に牧師の事務室を作るが、教会にとって大切なトイレと物置を欠いていた。

 私たちが神様に日々依り頼んでいく時に、最も大切な命、その命を救ってくださった神様は、毎日必要な食べるもの、着るものを添えて与えてくださらないはずがあろうか。神様は私たちを許してくださり、命を与えてくださり、食べるもの着るものを与えてくださった。

 仮に、人間が太陽の光に対して電気代を払うとしたら、毎月幾らぐらいになるだろうか。夏の間、電気代が沢山かかったことだろう。猛烈な暑さでクーラー代が大変だったと思う。神様がもし、太陽の光の料金を各家庭に請求なさったら、私たちは生きていくことができない。空気も同じである。人間が一月(ひとつき)生きるために必要な量を一トンまたは一〇トンと配給を受けるなら、どんなに大きな容器があっても足りない。

 水も同じで、日本人は水の有難さを知らないといわれている。もし、外国の人たちのように水は買うものだとすれば、もっと水の有難さを知ると思う。人間は、神様から人間にとって必要な空気、太陽、水など、ほとんどただかただに近い金額でいただいている。私たち人間にとって神様のすばらしい愛が、私たちの必要を満たさないはずがないのである。

 私たちは神様によって命を救われた、亡びから贖いだされた者として神様にこの命を捧げますと使徒パウロは書いた。
されば兄弟よ。…己が身を神の悦(よろこ)びたまう潔(きよ)き活(い)け る供物(そなえもの)として献げよ。…

   ロマ書一二章一節

 使徒パウロは命令はしなかったが、勧(すす)めた。あなたの体を生きた清い供物(そなえもの)として神に捧げなさい、と。皆さんがイエス・キリストを信じて救いを頂いた時に、この体だけではなくして、自分の働いて得たお金も、自分の才能もまた自分の時間もすべて神様にお捧げするというのが当然の感謝の供物(そなえもの)ではないだろうか。

 鳥や花にまさる人間として、神様は私たちを亡(ほろ)びの中から選び出して救って下さったのだ。犬でも飼い主のために自分の生命を犠牲にするという。How much more=A「まして」、人間は生涯を神様にお捧げできないはずがあろうか。(続く)


◎ 暗誦聖句 ヨハネ伝六章二九節


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