◆ ロマ書の学び(76)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年一一月二一日号
         ▽ み言葉を生きる

 

それ一人の人によりて罪は世に入り、また罪によりて死は世に入り、凡(すべ)ての人、罪を犯しし故(ゆえ)に死は凡(すべ)ての人に及(およ)べり。=@    ロマ書五章一二節

 ロマ書五章一二節からのところは様々な神学論争があり、多くの教派が生まれてきた。それはなぜ人間が罪を犯すのか、アダムが犯した失敗がなぜ現代の私達に影響をもたらすのか、というテーマについてたくさんの学者が論争を重ね、いろいろな考えがそこから生まれてきた。そこで、聖書全体の中から、罪の現実、罪のもたらした結果を見ながら、どのようにしてその罪を背負った人間一人一人を神様が救おうとして下さったか、ということにポイントを置いて考えていこう。

 このロマ書の解釈において、私達は少なくてもクリスチャンの一つの信仰の捉(とら)え方として、大きな流れがあるということを覚えていただきたい。まず、人間の自由意志に関してカルヴィン主義というグループがある。カルヴィンという聖書学者はたくさんの注解書を書いているが、日本でもそのカルヴィン主義の神学に傾倒する人たちがいる。もうひとつは、アルメニヤ神学という神学の旧体系でこの二つがキリスト教会における大変大きな神学の流れになっている。 

 カルヴィン主義は特に神様の選びを強調する。そして穏健で、穏やかな立場をとる人と極端なハイパー・カルヴィニズムという立場をとる人とがいる。だいたい長老派の教会(プレスヴィテリヤン)が、カルヴィン主義の流れを汲(く)む。人間の自由意志よりも神様の選びを強調し、たとえ私たちが伝道しなくてもえらばれている人は必ず救われると考える。だからカルヴィン主義の教会は、あまり海外宣教や福音宣教に熱を入れない。

 カルヴィン自身が「人間が宣教するなどとんでもない。越権行為である。」と、存命中に書簡の中で述べている。神様がお選びになった者であれば、今は関心がなくても神様に必ず救われる、選ばれているのだから…と。また、神様に選ばれていない人は、誰が伝道しても、聖書の勉強を導いても選ばれていないから救われない、と。これはとても極端な言い方で、私達はそういう立場をとっていない。

 もう一方のアルメニヤ神学は、人間の自由な意志を大変強調する。そして、人間は自分の自由な意志によってキリストを選ぶかどうかを決める、という。 それらについて、使徒パウロは何と言っているのか見てみよう。            
                ( 続 く )

◎暗誦聖句  マタイ伝六章三三節


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