◆ ロマ書の学び(77)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年一一月二八日号
         ▽ み言葉を生きる

 

 使徒パウロの書簡を見ると、最初の部分に『私は生まれ出る前から、神様によって選び分かたれた者である。』という表現を使って、わたしは神様に選ばれた者だ、と言っている。パウロの書簡を読むと、神様の選び≠ニいうことが大変強調されていると同時に、自分に与えられた意志を使って神様を選ぶということも強調されている。

 選びの教理を強調するグループと人間の意志を強調するグループがある。しかも、どちらも聖書にそのようなことが書かれている。ということは、私達は一つの神学にかたよってそればかりにかたまってはいけないということである。「選び」だからといって全然伝道しなければ、『あなた方は出て行って福音を述べ伝えよ。』というイエス様のご命令に対して反対することになるから、それは間違いだと言えるだろう。

 「人間は自由な意志で…」と言うならば、イエス様のお言葉の中で『汝ら我を選びしにあらず。我汝を選びたり。』とおっしゃっているから、アルメニヤ神学の強い立場はイエス様のお言葉で崩れていく。私たちは聖書を読んで完全な理解はできない。神様に召されて天の御国に上げられた時にはじめて、雲を通して見つめているような神様の真理、奥義≠ニいうものがわかるだろう。

 私たちは信仰生活の中で、自分が理解できる範囲で行動していくことが大事である。イエス様が『あなた方は出て行って福音を宣べ伝えなさい。』とおっしゃるから、私たちは出て行く。理解できるとかできないの問題ではない。なぜなら、イエス様は失われつつある者のためにその福音を伝えるように、教会に大命令をお与えになっているからである。

 自由意志≠ノついて考えるならば、神様は人間をロボットのようにお造りにならなかったということである。神様は、全知全能で何でもご存知である。アダムとエバが罪を犯したように人間は弱い、ということをご存知である。コンピューターのようにはじめから罪を犯さないようにセットがなされたならば誰も罪を犯さない。ただひたすら毎日、「神様、賛美します。ハレルヤ。アーメン。」とロボットのように繰り返すであろう。しかし、それは神様の望んでおられることではない。

 仮に男性と女性が愛し合うようになったとする。男性が女性に向かって「私はこれから仕事に行くから、あなたはこのテープレコーダーを聞いていなさい。」と言って出て行く。女性がテープレコーダーのボタンを押すと、「私はあなたを愛しています。I love you.T love you.」と、ずっと繰り返し聞こえてきたら女性はそれでうれしいだろうか。「何よ。こんなのばかばかしい。」と言って、ガチャンと切るに違いない。        

        ( 続 く )

◎暗誦聖句  マタイ伝七章二五節C
これ磐(いわ)の上に建(た)てられたる故(ゆえ)なり。


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