◆ ロマ書の学び(78)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇四年一二月五日号
         ▽ み言葉を生きる

 

されば一つの咎(とが)によりて罪を定むることの凡ての人 に及びしごとく、一つの正しき行為(おこない)によりて義(ぎ)とせ られ生命(いのち)を得るに至ることも、凡ての人に及べり。
             ロマ書五章一九節

 ギネスブックによると一字一句手書きで「I loveyou.」を十万回以上書いた男性がいるそうだ。人間が「神様を愛します。賛美します。」と録音したものを聞くようなことを、神様は望んでおられない。やはり、その人が心から意志を持って神様を賛美し、礼拝することを望んでおられる。そこに人間の自由意志≠ェ問題になる。アダムは神様に与えられた自由意志を使って、やってはいけないと言われていた事をやってしまい、神様に対する不従順、不信仰の罪を犯(おか)してしまった。

 罪にはまず的(まと)をはずす≠ニいう定義がある。弓矢なり鉄砲で向こうにある的(まと)の中央に矢を放つ。罪の最初の定義は的をはずす≠ニいうことである。神様が「人間はこのようにあるべきだ。」ということに対して、毎日の生活の中でその的をはずしてしまう。大ざっぱに分けると、やってはいけないことをやってしまい、やるべきことをやらない、という二つの領域における罪であり、神様への不従順≠ニいう罪である。そしてもう一つは神様に対する不信仰≠ェ罪と言える。

 若い人達は個人伝道を受けると「神様がはじめの人アダムとエバをお造りになったことはわかりました。そして、アダムが罪を犯したこともわかりました。でも、アダムと私とは関係ないじゃありませんか。私にはアダムが犯した罪の責任はありません。」と言う。
さて、ここからが実は長い神学論争の始まりとなる。なぜ人間はアダムが犯した間違(まちが)い、罪の結果として自分達が「罪人」と呼ばれなければならないのだろうか。

 使徒パウロはこのロマ書五章においてそれに対して、説明を加えているとお考え頂きたい。一人の罪が多くの人に死をもたらしたが、神様がお遣(つか)わし下さった一人の正しい人、イエス・キリストの犠牲(ぎせい)が多くの人に生命をもたらすということである。一人の罪は神様から有罪の宣告を受けたが、一つのいけにえがその罪の宣告を除いた。一つの罪が全世界を支配する力を持ったが、一つのいけにえが生命をもたらす。一人の罪によってすべての人に有罪宣告がされた(一八節)が、一人の犠牲により、すべての人に義と認めるという神様からの救いの方法が示された。


    ( 続 く )



◎暗誦聖句  コリント前書三章一一節
すでに置きたる基(もとい)のほかは誰も据(す)うること能(あた)はず、 この基は即ちイエス・キリストなり。


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