◆ ロマ書の学び(81

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年一月二三日号
         ▽ み言葉を生きる

 

 皆さんにおすすめしたいことは、もっと人間同士を知るということ、人間同士のふれあいを求めていくということである。なぜなら神様は人間をそのようにお造りになったからだ。皆さんがパソコンだけに打ち込んでいるとだんだん信仰から離れていく可能性がある。

 というのは、パソコンに打ち込めば「ああ、ほっとした。」で終わってしまう。正直に考えていただきたい。自分が悩み苦しみを持っているときに、Eメールを打って「ああ、すっきりした。」という感じを持たないだろうか。私が言いたいのは、「パソコンを使うな」ではなく、「パソコンよりももっと大切な神様に対して、イエス様に対して自分が苦しみを訴(うった)え、イエス様と霊的な交わりをすることをもっと優先的にしなければいけない」ということだ。そうしない限り、パソコンはあなたの助け手にならない。

 パソコンのような道具に打ち込むのではなく、まず神様に向かって声を上げる祈りこそが大事なのである。また祈る時は、無言では祈らない。たいてい自分ひとりで祈っていても、小さな声であっても「神様、私は今こういう風に苦しんでいます。」と、ちゃんと声に出して祈る。そして心から神様との交わりを求めていく。これが祈りである。

 神様は、人間が罪を犯すとしても、また恵みの提供を受け入れるためにも人間の意志に何の束縛(そくばく)も加えることをなさらなかった。神様は人間が自分の意志を持って神様に従っていくことを願っておられる。

 私はかつて何度となく、青少年の問題に課題が与えられて「青少年犯罪はどういう風にして起こってくるのか。」を時間をかけて勉強したことがある。今、中流家庭、あるいは上流家庭の子供が犯罪を犯すケースが増えている。教会の近くには有名な大学の付属高校があるが、そこの生徒達が利用する商店街の文房具屋の店主は嘆(なげ)く。「毎週のようにあの有名な大学の付属校の女の子が数人で来て万引きをしていくんです。」と。

 その子たちは東京の方から通ってくる中流、上流家庭の子弟達だ。その子たちが万引きをしてつかまると、「払えばいいんでしょ、払えば。」と開き直り、親が警察に呼ばれても、親も「お金を払えばいいんでしょ。」と言うらしい。また、「どうして万引きしたの。」と聞くと、「何軒見つからずに万引きできるか、みんなでコンテストをやっているんだ。」と全く罪の意識がない答えが返ってくる。まさに人間の恐ろしい姿である。

 ( 続 く )
 

◎暗誦聖句  コリント前書三章九節


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