◆ ロマ書の学び(82)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年一月三〇日号
         ▽ み言葉を生きる

 

 現在のいろいろなコンピューターのように、人間の頭の中にちゃんとプログラムを入れてしまえば悪質な犯罪は起こらないだろう。でもそれは、どんな優秀なロボットでも愛情の対象とはならないのと同じだ。神様は人間の自由な意志、「やろうかな、どうしようかな。」と迷い、迷って負けてしまったなら「神様、ごめんなさい。」と謝ることのほうを喜ばれる。

 迷ったあげく、「やっぱり神様に従っていこう。」というのであれば、そこにあなたの信仰の勝利がある。その勝利の積(つ)み重ねと、「ああ、神様感謝します。」という積み重(かさ)ねが、だんだん皆さんの信仰を強めていく。そして神様に心からより頼むことができる。

然(しか)のみならず今われらに和睦(やわらぎ)を得させ給える我らの主、イエス・キリストに頼(よ)りて神を喜ぶなり。

         ロマ書五章一一節

 私は大変宗教的な家庭に育った。物心ついた頃から、私が朝起きると父親が庭に出て庭の小さなほこらに一生懸命拝んでいるのを見てきた。題目(だいもく)を唱えながら数珠(じゅず)を動かし、太陽を拝み、家に入ると神棚に手を合わせ、仏壇に手を合わせていた。

 そういう生活を毎日見ていたが、そうした姿の中には人間の魂の救い、病の時、経済的な苦しみの時、戦争の恐怖の時などに、救いが全くなかったのを見出した。そして私は、親の信仰、親の宗教に頼らないようにしようと思った。あんなに一生懸命やっていても救いがなければ、その宗教に自分は身を投じることはできない、と思った。親の反対があっても、私は自分の意志で真理を求めようと考えた。私がそういう信仰の求めをしたために、父親や、母親が亡くなった時に手を合わせなかった。そのため、私の世話をしてくれていた一番上の兄に「兄弟の縁を切る。」と言われた。

 それから二〇年以上がたった。私に絶縁状を突きつけた兄が、「私はあなたが信じている神様を求めたい。」と言ってきた。だから、仮にイエス様を信じるという信仰のゆえに、家族から絶縁状を突きつけられても絶望しないで頂きたい。私たちは祈ってすぐ結果が与えられるとか、祈ったものが短い期間で結果となって現れると思うものである。祈り、あるいはクリスチャンの勝利というものはずっと長い期間に思えても、神様がご覧になればほんの一瞬に過ぎない。神様の約束に従っていく時、必ず勝利があるということだ。

 主、イエス・キリストに頼りて、神を喜ぶ。

とは何と素晴らしいみ言葉だろうか。 

   (続く)

 

◎暗誦聖句 コリント前書三章一四節


本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。