◆ ロマ書の学び(83)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年二月七日号
         ▽ み言葉を生きる

 

今日汝ら神の声を聞かば、心を頑固(かたくな)にするなかれ。      ヘブル書四章七節


 人間はイエス様を受け入れ神様の恵みを頂くことができる。神の子となる力を与えられるのである。

 東京の真ん中をぐるりと走っているJR山手(やまのて)線に乗っていると、居眠(いねむ)りをしていても同じ所に戻ってくるように、皆さんがアダムの系図という罪の中にいるならば、いつまでたってもぐるぐる回る山手線に乗っているのと同じだ。高尾山に行きたいと思うなら、山手線を降りなければならない。

 アダムの罪の系図から降りて、イエス・キリストの永遠の生命の線に入らなければならない。それをするためには、「あっ、秋葉原だ。降(お)りようか、どうしようか。降りよう。」と、決断を下さなければならない。その決断を下すのは意志である。

 神様を選ぶかどうかを決める時には意志が働く。最終的に「降りよう。」と決めるのが、聖霊の働きによるところの意志の決定である。山手線にはずっと乗っていることができる。

 「みんなが乗っているからいいじゃないか。どうせ滅びるなら、みんな滅(ほろ)びるんだから…。」と考えていて山手線に乗っていれば、一生乗り続けることができる。しかし自分の意思で、「いや、私は中央線に乗り換えて別の道へ行こう。」と思うのであれば、そこで電車を降りなければいけない。山手線は、あなたが降りるのを一時間も二時間も待っていてくれない。

 神様が私たちの心に強く働きかけて下さって「今日神様のみ声を聞いたならば、心をかたくなにしてはいけません。」とおっしゃる。 今は恵みの時、今は救いの日なり。 というお招きの時に、「はい。」と立ち上がって電車を乗り換えなければならない。人間が神様に従うという最小限の意志を示す時に、神様はこの人に悔い改める ということとイエス様を信じる≠ニいう信仰をお与えになる。

 イエス様はしばしば病人をご覧になった。弟子達を連れて道を歩いていらっしゃる時に、足の不自由な人や手の動かない人をご覧になった。「イエス様。」という声を聞かれると「あなたは何をして欲しいのか。」とお聞きになり「あなたは手を伸ばしなさい。」とおっしゃった。手の不自由な人、手のなえた人に「手を伸ばしなさい。」というイエス様の呼びかけは、自分の意志を持ってイエス様を求めることの大切さを示している。「いやダメだ。やってもダメだ。」と思っていれば動かない。「イエス様がおっしゃることだからやってみましょう。」と思ってやると自然に手が動いてくる。信仰のあらわれで神様のみわざがあらわされるのだ。

 (続く)


◎暗誦聖句  コリント前書三章一六節
汝ら知らずや、汝らは神の宮にして、神の御霊なんじ らの中に住み給うを。
 

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