◆ ロマ書の学び(84)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年二月二〇日号
         ▽ み言葉を生きる

 

 皆さんには、今直面している大きな問題があるかも知れない。経済的な問題、人生の、あるいは家庭の問題、結婚の問題、様々なことがあることだろう。しかし、不可能と思えるときに「神様。」と呼び求め、神様のみ声を待つ時に、神様はあなたの必要としている力をお与えになる。

 アウグスティヌスという有名な神学者がいた。若い頃、彼は大変誘惑に負けやすい生活をしていた。彼は神様にこう祈ったと記録されている。「主よ、どうぞ私を罪から救ってください。でも、全部じゃないです。」皆さんの中にも、こんな人はいるのではないだろうか。「神様、私を救ってください。でも、今私が楽しんでいるこれだけはやめられませんから…。」そういうのはないだろうか。

 「私を救ってください。でも、私が何より好きなパチンコはやめさせないで下さい。私が大好きなタバコだけはやめさせないで!」何か自分でとどめておきたい、残しておきたいものがあるのではないだろうか。アウグスティヌスはやがて、その祈りが不従順だということに気がついてくる。そして最後には、「主よ、私のすべての罪、けがれから私を清めてください。そして今、たった今私を救ってください。」と祈った。

 私は皆さんに「あなたは今こういう罪を犯しているでしょう。」と、いちいちあげる必要はない。皆さんの中で「私は何の罪も犯していない。」と、言う人がいらっしゃるだろうか。誰もいないはずだ。私たちは心の中にみんなアダムから受け継いだ罪の性質を持っている。以前、カルヴィン主義とアルメニアン神学の神学論争について言及したが、ここにその結果が出てきた。

 私たちは神学論争を知らなくても、誰から教わらなくても、自分の心の中に罪があることを知っている。自分の名前すら書くことのできないタイの仏教徒の人たちであっても、無学の人であっても自分は罪人であることがよくわかるという。

 お父さんお母さん達は、よく子供を捕(つか)まえて「あんたみたいな悪い子は見たことがない。」などというが、実際には自分達がそうだった。思春期や青年期の心理学を学ぶと「私の子供の頃にはそういうことはしなかった。私の子供の頃はこういう風にやった。」と言うそうだが、同じことを五〇年前の親も言い、一〇〇年前の親も言った、と書いてある。

 結局私たちは、自分達が悪いことをした、という経験を持っている。そしてまた、それがどういう痛みを伴うかを知っているのだ。
 

          ( 続 く )


◎暗誦聖句 箴言三章五節後半
…おのれの聡明(さとり)に倚(よ)ることなかれ。=@   
 

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