◆ ロマ書の学び(85)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年二月二七日号
         ▽ み言葉を生きる

 最近嫌(いや)な事件、親が子供を殺すというようなことが頻繁(ひんぱん)に起こっている。しかしはたして、私たちはこの人たちを非難(ひなん)することができるだろうか。私自身がイエス様の基準に照らすならば、実は毎日、人殺しと同じような罪を犯しているのではないだろうか。

 しかし、イエス様は私のそうした醜(みにく)い心と大変罪深い心をご存知で、奈落(ならく)の底(そこ)から引き上げてくださった。私たちは本当に不完全な者である。イエス様を信じた結果として、神様を喜ぶことができるようになるのだ。

 どなたでも大好きな先生だとかお友達を持っておられるだろう。その人といると何も言わなくても心安(やす)らぎ、穏(おだ)やかな気持ちになるという方が何人かいらっしゃるでしょう。「いや私にはそういう人はいません。私にとって一番大事なのは家の犬です。」という方も…。

 最近では、老人ホームなどで犬とか猫が「癒す」という目的で使われているようだ。老人達は誰も愛する相手がいない。ところが犬だとか猫を連れて行くと、とても和(なご)むそうだ。そのことは、人間がどんなに愛するという対象(たいしょう)、「愛される」のではなく「自分が愛する」という行為、働きかけをする相手が必要か、ということである。私達はイエス様によって救われ、そして喜ぶことができる。神様を愛する。心から積極的に神様を愛するということは、神様の言葉を学び、御心を知り御心に従っていく行為において神様を愛することが証(あかし)できる。

 私たちは罪がもたらす様々な結果をよく知っている。

 おなかをすかせたドロボウが肉屋に入った。手っ取り早く食べられるのはソーセージだ。肉屋の倉庫にはソーセージがぶら下がっていた。彼はしめしめと、ソーセージを引っ張って逃げようとした。しかし、ソーセージは引っ張れども引っ張れども一五メートルもつながっていた。逃げようとすると躓(つまづ)いて、もがけばもがくほど体中ソーセージのひもで結(ゆ)わかれてしまった。

 こっけいなドロボウではないが、私達は、もがけばもがくほど自分の努力では罪のワナから逃げることは出来ない。ぐるぐる回っているJR山手線(やまのてせん)からまっすぐな線に乗り換えることができるように、私たちの意志を使って「イエス様、私を救って下さい。」と、求める時にイエス・キリストは天国に直結する線に乗せてくださる。だから私たちは自分の歩いて来た道、人間の歩いて来た道を進むのではない。皆さんがこれから目当てとするところは、イエス様が敷(し)いてくださったレールの上を走っていくのだ。                  

( 続 く )
 


◎ 暗誦聖句 ヨハネ伝三章一六節

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