◆ ロマ書の学び(86)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年三月六日号
         ▽ み言葉を生きる

 どんなに罪深い人であっても、仮に誰かを傷つけたり殺害したものであっても、この五章二〇節を見ると罪の増すところには恩恵(めぐみ)もいや増せり。≠ニある。罪が深ければ深いほど、大きければ大きいほど、イエス様の愛は私達をすっぽりとかくまって下さり、愛のうちに育(はぐく)んで下さる。言い換えるなら、「私はそんな大きな罪を犯していません。」という人はまだまだ自分自身に頼っている。

 使徒パウロほど学問を追求した人はいなかった。パウロのように献身的に神を愛した人はいなかった。パウロのように世界中の人に対する愛を持った人はいなかった。にもかかわらず彼は、「私は罪人(つみびと)のかしらです。」と言った。神様に近づけば近づくほど、私たちは自分の罪深さを知る。そして、神様の愛は、罪の増すところに恩恵(めぐみ)もいや増す。≠ニいうことを学ぶことができるのである。少し長い引用だが、ローマ人への手紙五章八〜二一節を読み、その意味を考えて頂きたい。

 

然(さ)れど我等(われら)がなお罪人(つみびと)たりし時、キリスト我等のために死に給(たま)いしに由(よ)りて、神は我らに対する愛をあらわし給えり。

 斯(か)く今その血に頼(よ)りて我ら義とせられたらんには、まして彼によりて怒(いかり)より救われざらんや。

 我等もし敵たりしとき御子(みこ)の死に頼(よ)りて神と和(やわら)ぐことを得たらんには、まして和ぎて後(のち)その生命(いのち)によりて救われざらんや。

 然(しか)のみならず今われらに和睦(やわらぎ)を得させ給(たま)へる我らの主イエス・キリストに頼(よ)りて神を喜ぶなり。

 それ一人の人によりて罪は世に入り、また罪によりて死は世に入り、凡(すべ)ての人 罪を犯しし故(ゆえ)に、死は凡(すべ)ての人に及(およ)べり。

 律法(おきて)のきたる前(さき)にも罪は世にありき、然(さ)れど律法(おきて)なくば罪は認めらるること無(な)し。

 然(しか)るにアダムよりモーセに至るまで、アダムの咎(とが)と等しき罪を犯さぬ者の上にも死は王たりき。

 アダムは来(きた)らんとする者の型(かた)なり。

 然(さ)れど恩恵(めぐみ)の賜物(たまもの)は、かの咎(とが)の如きにあらず、一人の咎(とが)によりて多くの人の死にたらんには、まして神の恩恵(めぐみ)と一人の人イエス・キリストによる恩恵(めぐみ)の賜物(たまもの)とは、多くの人に溢(あふ)れざらんや。又この賜物は罪を犯しし一人より来(きた)れるものの如(ごと)きにあらず、審判(さばき)は一人よりして罪を定むるに至りしが、恩恵の賜物は多くの咎(とが)よりして義とするに至るなり。

 もし一人の咎(とが)のために一人によりて死は王となりたらんには、まして恩恵と義の賜物とを豊(ゆたか)に受くる者は一人のイエス・キリストにより生命(いのち)に在(あ)りて王たらざらんや。されば一つの咎によりて罪を定むることの凡ての人に及びしごとく、一つの正しき行為(おこない)によりて義とせられ生命を得るに至ることも、凡ての人に及べり。

 それは一人の不従順によりて多くの人の罪人(つみびと)とせられし如く、一人の従順によりて多くの人、義人(ぎじん)とせらるるなり。

 律法(おきて)の来(きた)りしは咎の増さんためなり。されど罪の増すところには恩恵もいや増せり。これ罪の死によりて王たりし如く、恩恵も義によりて王となり、我らの主イエス・キリストに由(よ)りて永遠(とこしえ)の生命(いのち)に至らん為なり。=@               (続く)


 
◎ 暗誦聖句 ヨハネ第一書四章一節ABC
愛する者よ、凡ての霊を信ずな、その霊の神より出ずるか否かを試みよ。

 

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