◆ ロマ書の学び(89)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年四月三日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 主イエス・キリストは肉の体、人の形(かたち)をおとりになって(ヨハネ伝一章)この地上に生活なさり、そして人間と同じ食べ物を食べ、寝起きをなさって、弟子達を訓練された。罪けがれのないイエス・キリストが私達の身代わりとなって下さるということによって、神様の裁きから逃れる道が開かれた。神様が下さった贈り物、イエス・キリストのあわれみを拒み続けるところに、現在の私達の罪がある。

 誰でもイエス・キリストを見上げて「私を救ってください。」と、お願いするならば、どんな恐ろしい殺人を犯した人であっても救われることが出来る。そのことはすでに旧約聖書のイザヤ書のなかで預言されている。

エホバいい給わく、いざ我らともに論(あげつ)らわん。汝らの罪は緋(ひ)の如(ごと)くなるも、雪のごとく白くなり、紅(くれない)のごとく赤くとも、羊の毛のごとくにならん。
                イザヤ書一章一八節

 私達の罪けがれがたとえ火のように赤くても、雪のように白くして下さる、という大変大きな神様の憐れみが書かれている。また、イザヤという名前(「エホバは救い主」の意)が象徴するように、聖書全体を貫く教えは神様は罪深い私達、神様の贈り物を拒み続ける私達を哀(あわ)れんで救おうとその機会を待って救ってくださる、ということである。

 交通事故に遭(あ)った時、あるいは病気で臥(ふ)せった時、あるいは家族のいざこざでどうしようもなくなった時、人間関係がにっちもさっちもいかなくなった時、閉じ込められた状態の時、その時に私達は自分の力でも功績でもなく、神様から頂くあわれみによって救われようという心砕かれた状態、へりくだった状態になって神様を呼び求めるようになる。

 今、海で溺(おぼ)れかかっている人がいる。アップアップやって一息頭を出しては、またブクブク沈んでいく。そこへあなたが船に乗って、浮き輪をつけ、いざという時には自分も飛び込んで助けようとそばに行く。すると、溺れている人が「もう少し髪をちゃんとして来て下さい。」とか、「あなたの水着のデザインはあまり気にいりません。私はもっときれいなデザインの水着の人に救われたい。」と、言って、助け舟が来たのに、この人が拒んだら誰の責任だろうか?助ける人の責任だろうか?明らかにこれは拒んだ人の責任だ。溺れつつある人が、もう少し服装のきちんとした人がいいとか、お巡(まわ)りさんに救われたいとか、別の人に救われたいと思って拒(こば)んでいれば、それはその人自身の責任になる。(続く)


◎ 暗誦聖句  詩篇一〇七篇六節
かくてその困苦(くるしみ)のうちにてエホバをよばわりたればエホバこれを患難(なやみ)よりたすけいだし

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