◆ ロマ書の学び(90)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年四月一〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 私たちは本当に救われたいと思う時には、ただひたすら「神様、私を救ってください。」と、願う。それを、「心が砕(くだ)かれた状態」と聖書は表現する。自分の好みとか好き嫌いで、ああでもないこうでもないと言って議論したり選ぶのではなく、神様が下さった贈り物であるイエス様を素直に受け止めるということである。自分の力に頼ってはいけない。

 さらに私達はイエス様を信じる時に、この地上における日々の生活の中で仮に誘惑に負けても、それで罪の奴隷になることはない。イエス様を信じる前、私達は罪の責め苦にさいなまれ「また失敗してしまった。また悪いことをやってしまった。」と、いつも悔いが残る惨(みじ)めな人生を歩んでいた。

 しかし今、ロマ書五章二〇節を見るとされど罪の増すところには恩恵(めぐみ)もいや増せり。≠ニある。そこで考えることは、「私は正しい人間であるから、立派な家系に生まれたから神様に救われる。」というのではなく、「私の心には醜(みにく)い罪がいっぱいあって、自分の力ではどうすることもできない、私にはやめようと思ってもやめられない悪い癖、悪い性質がある。自覚すれば自覚するほど私は他の人よりもはるかに悪い人間だ。」ということがわかってくる。

 そして、罪の増すところ恩恵もいや増せり。≠ニいうことが少しずつわかってくる。イエス様は『多く罪許されたものは、多く愛する』とおっしゃっている。私達が罪そのものの力に負けて神様の前にあって自己主張する時に、まだまだ自分が砕かれていないことがわかってくるのである。 

されば何をか言わん、恩恵(めぐみ)の増(ま)さんために罪のうちに止(とどま)るべきか、決して然(しか)らず、罪に就(つ)きて死にたる我らは争(いか)で尚(なお)その中(うち)に生きんや。

 汝ら知らぬか、凡(おおよ)そキリスト・イエスに合うバプテスマを受けたる我らは、その死に合うバプテスマを受けしを。

 我らはバプテスマによりて彼とともに葬(ほうむ)られ、その死に合(あわ)せられたり。

 これキリスト父の栄光によりて死人の中(うち)より甦(よみが)えらせられ給(たま)いしごとく、我らも新(あたら)しき生命(いのち)に歩まんためなり。

 我らキリストに接(つ)がれて、その死の状(さま)にひとしくば、その復活(よみがえり)にも等(ひと)しかるべし。

 我らは知る、われらの奮(ふる)き人、キリストと共に十字架につけられたるは、罪の體(からだ)ほろびて、此(こ)ののち罪に事(つか)えざらん為なるを。

 そは死にし者は罪より脱(のが)るるなり。我等(われら)もしキリストと共に死にしならば、また彼と共に活(い)きんことを信ず。=@

   ロマ書六章一〜八節(続く)

 
◎ 暗誦聖句   箴言一四章二七節


本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。