◆ ロマ書の学び(91)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年四月一七日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 ロマ書六章において、使徒パウロはイエス様を信じるものは義と認められた後に聖(きよ)くされていくという過程を述べている。義認(ぎにん)の次が聖化(せいか)ということである。イエス様を信じるものは罪の力から自由にされるということだ。この六章で難しいテーマの一つは、イエス様を信じたら私たちは絶対に罪を犯したり、間違いを犯すことがないかということだ。

 「クリスチャンでも罪を犯す」と思う方は、どの位いらっしゃるだろうか。感謝なことに、イエス様を信じて罪を犯した時にそこには赦(ゆる)しがある。イエス様が弟子達にお教えになったことを思い起こしていただきたい。「兄弟があなたに罪を犯したならば、何回罪を許しますか?」と、質問した弟子にイエス様は「七度を七〇倍するまでその兄弟を許しなさい。」と、仰せになった。イエス様ご自身がそうおっしゃったわけだから七の七〇倍は四九〇回…といちいち数えることもなく、これは無限にと思っていただければ良い。七は聖書の中では完全数といわれているから、無限に限りなくと解(かい)せば良い。

 ところがお母さんはそうはいかない。「あなたはこの前もやったでしょ。いったい何回やったら気がすむの!」子供に対しては数を数える。「先週やったでしょ、先月やったでしょ、去年もやったでしょ。」数えると、きりがないが、神様はそれ以上に私達を愛して下さり許して下さる。そして、その傷を癒(いや)してくださるのだ。もし神様の哀れみ、神様の恵みや、罪の増すところには恩恵(めぐみ)もいや増せり。≠ニいう御言葉がないなら、私達は絶望の淵(ふち)に立たされていると思う。

 皆さんはお客様用のティーセットや、カレーセットをお持ちだろう。奥さん達は、セット物の中のお皿だとかカップを割ってしまった経験があると思う。

 不思議なことに、日本の食器類は五個組になっている。西洋の食器はたいてい六個セットだ。仮にそのセットのものを一つ、一枚割ってしまうと「もうこれはお客様用としては使えない。普段用として家で使いましょう。」ということになる。いったん傷がついたらダメと考えてしまうが、神様は全く傷がなかったと同じように私達を変えてくださるのだ。ここに神様の救いがどんなに万全であり、すばらしいものであるかがわかってくる。すると、罪の性質がある人間は愚かにもこう考える。「神様が許してくださって、また新しくなるなら、何回やってもいいではないか。思う存分遊びほうけてやろう。何をやっても神様は許して下さるんだから…。」 (続く)

◎暗誦聖句 ロマ書一三章一節A


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