◆ ロマ書の学び(92)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年四月二四日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 使徒パウロがロマ書を書いたのは約一九五〇年前だが、その当時の人も、「もし神様が全部の罪を帳消しにして下さるなら、毎日したい放題やればいいではないか、どんな罪を犯しても神様は許して下さり自分は安全なのだから。」と言った人達がいた。そういう人達に対してパウロはロマ書六章二節で決してしからず(そうではありません。)≠ニ、言っている。「罪について死んだ私達が、どうしてなおそのうちに生きることができようか。」と、言っているのだ。

 ロマ書の大変大事なテーマが出てきた。イエス様を信じるということは「死ぬこと」だ。イエス様を信じるということは、あなたが死ぬということである。

 皆さんにわかりやすいように例えでお話しよう。立派な棺(ひつぎ)に入った遺体がここに持ってこられた。ふたを開けて、「では皆さん、この亡骸(なきがら)に話しかけて下さい。」覗(のぞ)き込んだ人達は「寝たきりで棺(かん)おけに入ってて苦しくない?返事がないから、少し叩(たた)いてみようか。」と叩いてみても、返事はない。なぜだろうか。この亡骸(なきがら)は死んでいるからだ。

 死んだ遺体を石で叩こうが、線香をつけて焼こうが何の反応もない。死んだ人間は絶対に痛いとも熱いとも言わない。だからこそ、日本人は火葬場で遺体を焼くのではないだろうか。こんなわかりやすい道理であるのに、クリスチャンの場合、イエス様を信じるということは「自分が死ぬ」ということだと理解できない。私達は罪について死んだのである。

 決して然(しか)らず、罪に就(つ)きて死にたる我らはいかで尚(なお)その中(うち)に生きんや。=@     ロマ書六章二節

 皆さんの中には、どうしてもやめられない、これだけは絶対手放せない、というものはないだろうか。奥さんがなんと言おうと、親がなんと言おうと「やめられない。」という趣味、嗜好品、酒、タバコ、あるいはダンス、マージャンだとか…。もし、何があっても自分はやめられないという時は、あなた自身がその食べ物なり、飲み物なり、趣味なりの「奴隷」となっているということだ。

 アメリカに留学中のある夏休み、私は大学の友人達とコロラドに児童伝道に出かけた。その時、別の学校から来ていた学生が、コーヒーを飲んでいた私たちに「コーヒーは罪だ!」と、批判し、論争が始まった。果たしてコーヒーは罪なのかどうか?私達はコーヒーを罪とは思っていないが、絶対にそれがないと生きられないとか、やめられないというなら、私達を奴隷にする。(続く)


◎暗誦聖句  ヘブル書一三章一七節A


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