◆ ロマ書の学び(94)
我らはバプテスマによりて彼とともに葬(ほうむ)られ、その 死に合(あわ)せられたり。これキリスト父の栄光によりて 死人の中(うち)より甦(よみが)えらせられ給(たま)いしごとく、我らも
ロマ書六章四節 イエス様が十字架におつきになって私たちの罪の身代わりとなって死んで下さった時に、私たちも、汚れに満ちた自分の肉の体をイエス様の十字架に合わせたのだ。現実には、私達はこの地上にあって生きているが、信仰によって、イエス様が十字架におつきになった時に、アダムから受け継いだ私たちの古い性質も一緒に十字架につけられて、古い性質は死んだのである。イエス様が死んで葬られ墓に入れられた、その「死」に私達はあわせられるという。さらにイエス様が、三日後に復活なさったように、私たちもイエス様の復活にあわせられていく。 言うならば、私たちはお父さんお母さんから受け継いだこの古い性質、自分という人間を脱却する。「透明人間」という映画が私の子供の頃にも流行(はや)った。気に入らない友達をポカンと殴(なぐ)っても、相手が誰なのか見られない。私達はそういう透明人間ではない。 イエス様が十字架につけられたときに、私達は死んだ。私の古い性質は十字架につけられて死んだ。皆さんは、生きる時に目的なしに生きることはないだろう。一見、何の目的もないように生きているが、実は神様にあって新しい生きる目当てを与えられている。その目当ては、イエス・キリストのお姿に似るようになるということだ。 結婚している婦人の場合、大それた計画はなくても家庭にあってはその子供を育て養い、料理を作り、洗濯をし、片付けをし、主人を助けることがあなたにとっては最高に幸せなことであり、日々の務めである。学生の皆さんは、自分に与えられた学校において、自分の力の限りその学びをし、遊ぶ時には力一杯遊び、運動する時には思いっきり運動をする。神様が私たちをお造りになったその目的に従って、毎日、最大限ベストを尽くしてその日を過ごす事である。今は、はっきりと自分が将来何になるのかわからなくても、神様はやがて一歩一歩道を開いて下さる。そして自分はどういう働きをすべきかということがわかってくる。 私達が「死ぬ」ということは、信仰の領域で死ぬということである。まず頭の領域で理性的に「私のアダムから受け継いだ古い性質は、イエス様が十字架につけられて死なれた時に共に死んだ。これからは、アダムの遺伝子が命じるままに生きるのではなく、イエス様の御心に従っていこう。」と、考える。これが原動力を増す。 (続く)
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