◆ ロマ書の学び(97)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年五月二九日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 生まれつきの人間は罪の性質のままに生きている。その結果、様々な恐ろしい出来事に出会う。しかしクリスチャンは、もはや罪の力によってコントロールされない。

 このことをしっかり心に留めて頂きたい。時には友達に誘われて「やってはいけない事をやってしまった。」ということが起こってくるかも知れない。しかし、その痛みを覚え「神様ごめんなさい。」と言う時に、今度は力を与えられてくる。罪の力は、あなたを思うままにコントロールできなくなる。

 その理由は、あなたの古い性質は死んだからだ。新しい性質のもとにあって、神様によって生かされるから日々の歩みにおいて間違いを繰り返し繰り返し行うことがなくなる。

 第一ヨハネ二章四節には『われ彼を知る』と言いてその誡命(いましめ)を守らぬ者は、偽者(いつわりもの)にして真理(まこと)そのうちになし。≠ニある。この聖書に書かれた原文は、現在形、進行形であり、今、イエス様を信じつつある人は、決して罪を続けることはない。≠ニいう意味になる。

 ガラテヤ書二章二〇節には、最早(もはや)われ生くるにあらず、キリスト我が内(うち)に在(あ)りて生くるなり。≠ニある。そのことを毎日言い聞かせることが大事である。

 罪に負けた時に「もはや我生くるにあらず…。アダムの性質が生きるのではない。イエス・キリストのご性質が私を生かして下さっているのだ。神様、どうか私を強めて下さい。今度は誘惑にきっぱり立ち向かうことができますように。罪の奴隷となる事がないようにして下さい。」と願う。

 これが、第一ヨハネ一章九節のもし己(おのれ)の罪を言いあらわさば、神は真実(まこと)にして正しければ、我らの罪を赦(ゆる)し、凡(すべ)ての不義(ふぎ)より我らを潔(きよ)め給(たま)わん≠ニいうお約束だ。罪を赦(ゆる)された者は、ごちゃごちゃと過去のことを考えることはない。

 外に遊びに行こうとする子供に、「もうすぐおじさんの所に行くのだから、洋服を汚してはダメよ。」と言っても、泥んこになって帰ってくる。親は叱って、また新しい洋服に着替えさせる。子供は叱られてもケロッとして、親に抱きついてくる。

 クリスチャンも同じだ。罰は罰で受けるが、また神様に愛をもって向かっていく。「罪を赦される」とは、魂の束縛(そくばく)、罪の縄目(なわめ)から解放された者が味わうことのできる最高の喜びである。クリスチャンの信仰の喜び、力の秘訣は、ロマ書六、七、八章にあると思って頂きたい。

 イエス・キリストのお姿に似るように、天の御国を目指して日々歩んでゆこう。失敗してもそこで諦(あきら)めず、神様を見上げてゆこう。悪魔は私たちを再び奴隷にすることはできない。なぜなら、イエス様が私の味方でいらっしゃるからだ。             (続く)

◎ 暗誦聖句 ロマ書一三章二節前半
この故に権威にさからう者は神の定(さだ)めに悖(もと)るなり

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