◆ ロマ書の学び(99)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年六月一二日号
         ▽ み言葉に生きる

 人間は信仰によって始めながら、自分の力でそれを完成させようとする弱いところがある。しかし私たちは聖書を通し、神様の御力によってのみ、義とされ、そして聖(きよ)くされていく。

 カトリックの世界では、聖マザー・テレサというように、いろいろな人たちを「聖○○」と呼んでいる。カトリック寺院に行くと有名な聖人の記念碑に四六時中、ろうそくが灯され、人々はそこで香をたき、祈る姿を見る。しかし、イエス様を信じて、その十字架の血によって洗い聖められた人は、誰でも「聖徒」なのである。そのことは、新約聖書の中にパウロがくり返し書いている。

 神様によって、救われたあなたは聖徒である。だから、教会はイエス様を信じて救われた人たちの集まりであり、「聖徒の集まり」なのだ。聖書の聖、「聖くされた人々の集まり」であることを覚えてほしい。

 日本の皇太子は、世界のどこへ行っても、自分が皇太子であるという自覚を失わない。そして、誰が見ていようと見ていまいと、天皇家の一員として自覚を持ってきちんとやろうとする。

 イエス様を信じ、救われた私たちは、自分の力ではなくイエス様の十字架の血によって罪を聖められた。神の前に罪を赦(ゆる)され、神の子供と認められたことを、絶えず覚(おぼ)えなければならない。

さらば如何(いか)に、我らは律法(おきて)の下にあらず、恩恵(めぐみ)の下 にあるが故に罪を犯すべきか、決してしからず。
                ロマ書六章一五節

 使徒パウロの時代、ある人々は「私はイエス様を信じたからもう何をやっても自由だ、裁(さば)きは来(こ)ないんだ。」と言って、ぐうたらな生活をしていた。それまでやっていた過去の悪い習慣へと逆戻りした。イエス様を信じたのだからどんなことをしても罰(ばつ)は来ない、と考えたのである。

 それに対して、使徒パウロは、「イエス様を信じて聖い生活をいただこうとしている一方で、元の世界に戻(もど)ってその罪の喜びを楽しむとはとんでもないことだ。そんなことはあり得ない」と誤(あやま)りを指摘した。水と油は、どんなによくかき混(ま)ぜても分離する。サラダドレッシングを作ると、油は軽いのでしばらくすると、スーッと上に浮いてくる。

 クリスチャン生活も、これと同じである。神様を信じる人達は、この罪の世界にあっては浮き上がってくる。私は罪の中にいる人たちを救うためにあえて悪いところへ入っていきます、というのはとんでもないことだ。はじき飛ばされるのがおちである。罪は罪をもたらす。
                 ( 続 く )

◎ 暗誦聖句 マタイ伝九章一二節
之を聞きて…「…ただ病める者これを要す。」

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