◆ ロマ書の学び(100)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年六月一九日号
         ▽ み言葉に生きる

 私たちは、聖書に書いていない事柄についてあれは罪だ、これも罪だ、と言うことは出来ない。なぜならば、この聖書が書かれた二千年前の時代と、今の時代では様子(ようす)も違うからである。なぜ聖書は、全(すべ)てのことについてはっきりとこれは罪です、と書いていないのだろうか。それは罪というものは、やった行為(こうい)だけでなく、心の中に出発点があるからだ。私たちはバプテスマを受ける時、あなたはこれをしませんか、あれをしませんか、といちいち聞かない。そんな必要はないからだ。

 もし、イエス様に目を向けて、神様にいつも近づいて過(す)ごすなら、だんだん悪い友達は去っていく。もうあなたと一緒にいても、話してもちっとも面白くないからと、悪い影響を与える友達は去っていく。

 私たちはイエス様を信じて生かされた時、イエス様と共に十字架につけられてこの古い性質は死んだ。そして、イエス様が復活なさったのと同じように、私たちもイエス・キリストの復活の生命(いのち)を頂(いただ)く者とされたのである。バプテスマは、罪の性質が死んで葬(ほうむ)られ、(水中に体全部を沈めることで、死と葬りを象徴する)イエス様が復活されたのと同じように、水からあがった時に、新しく生きる者とされたことを象徴(しょうちょう)するものである。

 人はバプテスマによっては救われない。バプテスマは、イエス様を信じた者たちが、イエス様と共に合わせられて神様の永遠の生命を授(さず)かったことを、人々に証(あかし)をするものである。イエス様を信じて罪を赦(ゆる)された人たちが、生涯イエス様に従っていきます、という思いを込めて、バプテスマを受ける。寝たきりの病人もバプテスマを受けなければダメか、というとそうではない。

「人は心に信じて義とせられ」とパウロはロマ書に書いている。
それ人は心に信じて義とせられ、口に言い表(あらわ)して救わるるなり=@

        ロマ書一〇章一〇節

 では、「病人がバプテスマを受けないから、私も受けなくてよい。」と言えるだろうか。否(いな)である。通常の健康体ならば、皆、バプテスマを受け、イエス様に従っていくべきである。イエス様と一緒に死んで葬(ほうむ)られ、復活するというその「象徴」を、自分の証として受けることが大事である。

 赤ちゃんが「オギャー。」と生まれたら、父親が飛んでいって「何月何日、家のこういう誰々が誕生しました。」と市役所に出生届をする。市役所では受理をして、確かに出生したことが戸籍に載(の)る。

 バプテスマは、いわば皆さんが救いの戸籍に入るようなものである。 

          ( 続 く )

 


◎ 暗誦聖句  ヨブ記二章一〇節B

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