◆ ロマ書の学び(106)
我らもしキリストと共に死にしならば、また彼と共 に活(い)きんことを信ず。=@ ロマ書六章八節
ロマ書から「死ぬことは実は永遠の命の始まりである」ことを知ることができる。この生まれながらの肉の体、アダム以来の生まれつきの肉の性質が死ななければ新しい命は私たちを支配することが無い。 聖書の中でもっとも難しい場所と言われているロマ書の六、七、八章は、クリスチャンの信仰の土台となっている。 多くの人たちはキリスト教は難しいと言う。頭の理解も含めて、経験的に自分という「自我」を神様の前にあって十字架に付けることが大変難しい。それほど私たちには自分を守りたいと言う願いが生まれつきある。 フロイトという学者は、すべての人間が持つ「エゴ」(=自我)と言う言葉を使い、自我が強いということ、自分の利益だけを追い求める、ということを語った。 クリスチャンは全くそうしたエゴイスティックな自我を強調することがないというと、真実ではない。歴史にみる社会生活、一般社会の中で、大変自我が強いことを見る。 クリスチャンといえども、このロマ書六章の教理をはっきりつかまないと、自我の虜(とりこ)となってしまう。そしてクリスチャンと言いながらこの世の中の流れ、一般の人たちと同じ欲望の虜となってしまうのである。 もちろん、クリスチャンの場合、あからさまには出さない。むしろ罪の中にいる人々の方がお金、性欲、物質欲をはっきり表面に出す。クリスチャンはそれをオブラートに包んで、ベールの中に隠す。しかし、その自我は日々の生活、言動の中に徐々に、だがはっきりと、やがて現れてくる。 (続く) |