◆ ロマ書の学び(107)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年八月一四日号
         ▽ み言葉に生きる

 

されば罪を汝らの死ぬべき体に王たらしめてその欲 に従うことなく=@       ロマ書六章一二節

 この日本が、本当の意味で神様の救いをいただくためには、私たち一人一人が、自我を十字架につけられ、イエス・キリストの中に生きるということを学んで、神のみこころに従って生きていかなければこの国は決して救われない。

 私たちは、信仰によってどこかの国が救われるというようには考えない。神様の救いは一つの国ではなく、個人個人の救いであるからだ。

 世界中どこを探しても、あの国はキリスト教の国だと言える国は無い。キリスト教的雰囲気を持つ国、信者の多い国はあるが・・・。

 たとえば、フィリピンはクリスチャンの国というが、本当の意味でクリスチャンの国ではない。カトリックの儀式に参加する人が多い。それは、ちょうど日本が仏教の国といわれ、先祖崇拝を行い、葬儀の時だけ数珠を持って葬儀に行くのと似ている。

 本当の意味で、神様を信じて悔い改め、新しく生まれたクリスチャンの国というのは、まずどこにもない。

 私はフィリピンに行く度に、カトリック教がどれほど「儀式」にとらわれているかを知らされる。

 九月後半になると、あちこちの広場に大きなスピーカーがつけられて、金曜日、土曜日の夕方5時半頃からガンガンダンス音楽が流れる。そして一人だいたい三円(一ペソ五〇セント位)で入場券のようなものを買い、踊るのである。

 その主催者はカトリックの寺院である。驚くなかれカトリックの寺院が、こうしたダンス・パーティーを開いてお金を集め、クリスマスに備えるのである。まさにこれは、信仰に名を借りた世的な行為ではないだろうか。

 私たちは「自我」というものを、なかなか自分の力で取ることができない。他人の力によっても、取ることは不可能である。

 どんな小さな子供であっても、自分を守ろうとして嘘をつく、親に反抗する、はむかう、社会に牙をむく。これらすべての中心に罪がある。自分の中にひそむ「自我」が、その人を動かしているのだ。

 自分の人生は誰が支配しているのか? 

 自分を動かすものは何か、というならば、自分の中にある罪にとらわれた「我」であると思えばよい。神様に敵対的な力である。

       (続く)
 

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