◆ ロマ書の学び(108)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年八月二一日号
         ▽ み言葉に生きる

 

斯(かく)のごとく汝らも己(おのれ)を罪につきては死にたるもの、神につきては、キリスト・イエスに在(あ)りて活(い)きたる者と思うべし。=@        ロマ書六章一一節

 人間には肉体、精神、そして霊の部分がある。この肉体と精神と霊の部分、特に霊というのは人間の一番中心的な、目に見えない部分である。聖書の教えでは、生まれつきの人間は、この霊の部分が死んだ状態にあるといわれる。イエス様を信じて新しい生命をいただくとは、聖霊の内住、私たちの霊の部分に聖霊が宿ってくださるということである。

 ここで問題なのが、東洋人的な思想が出てくることである。日本人は昔から「心」という言葉を使った。日本人がつかう「心」という言葉は、英語には翻訳できない大変奇妙な、しかも幅広い意味合いを持っている。たとえば「一寸の虫にも五分の魂」という言葉がある。小さな虫であっても心が宿っていますよ、魂がありますよ、ということでつかわれる。

 日本人は心と魂と精神、そして霊と言う全然違う世界のものを、ごちゃごちゃに混ぜて「心」という表現で扱っているのだ。日本人が信仰を理解しにくい理由はそこにあると思う。

 しかし、生まれつきの人は霊の部分が暗闇の中に入っている。使徒パウロはコリント人への手紙の中で生まれながらの人は霊のことを知ったり悟ったりできない≠ニ書いている。人間は生まれつきの知識によっては神様を知ることができない。それは霊の部分が暗闇の中に死んだ状態にあるからである。

 人間には肉体、精神、そして霊がある。「霊」の部分は神様との関係を表す。私たちが神様と交わるというとき、踊りを踊ったり滝に打たれたりして神様と一体となるのではない。人間の霊の部分、スピリットの部分が神様を礼拝する領域なのである。

 精神(ソウル)と肉体(ボディ)はすべての動物が持っている。精神とは考える領域のことで、小さなペットであってもご主人の命令に従うと愛情を示すという精神的な働きを持つ。しかし、どんなに賢いペットであっても神様を礼拝することはできない。なぜなら動物は霊の部分がなく聖霊の働きが無いからである。人間がアメーバから出発して類人猿になり人間になった、というのは暗闇の世界にいる人間の考えと言わなければならない。果たして類人猿は真の神様を礼拝することができるだろうか?できない。彼らには、神様を礼拝するという霊の部分が無いからである。  

 

(続)
 

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