◆ ロマ書の学び(109)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年九月四日号
         ▽ み言葉に生きる

 

されば罪を汝らの死ぬべき体に王たらしめてその欲 に従うことなく=@       ロマ書六章一二節

 この肉の体はこの世との関わりがある。そして環境に左右される。同じ人間であっても、南方に住む人たちは日本人と同じ体ではない。まず暑い時に私たちが汗を出す汗腺の量が、日本人と南方に住む人とは違う。逆に南方の人たちが北海道に行くと寒い。私たちにとっては快適だと思うとき、彼らは寒い寒いと震え上がる。明らかに、その地方地方によって住む状況や、遺伝的な面で人間の体は違う。しかし、どこに住む人間であっても、肉体、精神、霊という三つの構成は変わることはない。

 人類だけに与えられた、神様を礼拝するという霊の領域があるのだ。

 使徒パウロは、八章で肉的なクリスチャンについて書いている。自分の欲望、自我というものが自分の生活を支配し、あるときには教会に行って非常に熱心になり信仰的に見えるけれども、根底には自分というものがまだ力をのさばらせている。それが「カーナル・クリスチャン」である。

 世界にはクリスチャンの数は多いと言っても、肉的な、世的なクリスチャンが大変多い。信仰によって歩むと言いながら、実は自分の利益のために宗教の力を借りたり、自分の商売のために宗教活動を使ったり、自分の名声を高めるために宗教の名を借りて、慈善事業をすることがある。

 四〇年ほど前、日本にいた宣教師が、貧民窟で食事を配ったり、クリスマスの時期にプレゼントを持って行くと、必ず新聞社に行って私はこんな事をしましたと報告したと言われる。私はその新聞記事を見て胸を突かれた。神様を信じる人でも自分の行いを吹聴する、新聞で取り上げなさいと言って売り込む人たちがいるということでびっくりした。宗教に名を借りた自己宣伝である。 

 しかし、これは四〇年前の宣教師に限らない。私はどうだろうか。あなたはどうだろうか?あなたは教会というところを自己宣伝のために、自分の利益のために使うということは無いだろうか?私たちは何が自分の生活の中心になっているのか、私の人生を動かすのは自我か、キリストかをしっかりと見つめなければならない。

 自分が中心になっていると、精神的には劣等感があり、生活が不安定になる、自分は不適応と考え絶えず自分を責める。想像上の恐れや実在する罪の恐れがある。そして心配や疑いが絶えず心の中に渦巻き抑鬱、不安がある。今、日本において大きな社会問題になっている。

(続)  

 

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