◆ ロマ書の学び(116)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年一〇月二三日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 下図の横の棒はアダムからずっと現在に至るまで、そしてまたこれから続く人間の歴史を現している。神様の時が満ちて、イエス様がこの地上においで下さり、私たち一人一人の罪汚れを十字架の上で背負って下さり、私の払うべき代価をイエス様が肩代わりして、身代わりとなって背負ってくださったのである。

 「イエス様を心にお迎えします。イエス様、あなたが十字架についてくださり、私のために死んでくださったことを信じます。」こう言って心にイエス・キリストの十字架を自分のためであったと受け入れるなら、全世界を治められる創造主でおられる神様は、完璧な贖いの死であるキリストの十字架の中に入ったもの、十字架に隠れたものは、すべての罪汚れを罪として見なさない、とおっしゃるのだ。

 ロマ書で使徒パウロは、自分はイエス・キリストと一体とされて、古いアダムからの性質は十字架につけられて死んだと見なしなさい、"reckon" という言葉を六章一一節で使った。古い性質の自分は死んだ、イエス様と共に十字架につけられて死んだのであるから、今からイエス様を信じて歩く私の人生というものは自分が生きているのではなくして、イエス様の生命が私を生かすのだ、と、そのように考えて行動しなさいというのである。

 以前にもふれたように、死んだ人は罪がどんなに襲ってきても、その罪は彼を征服する力が無い。そこにもたらされるのは永遠の命である。

「我らは知る、我らの奮き人、キリストと共に十字架に つけられたるは、罪の體ほろびて、こののち罪につか えざらん為なるを。そは死にし者は罪より脱るるなり。 我らもしキリストと共に死にしならば、また彼ととも に活きんことを信ず。」

               ロマ書六章六〜八節
                    (続く)


 

◎ 暗誦聖句 コリント後書一一章三〇節
もし誇(ほこ)るべくば、我が弱き所につきて誇らん。


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