◆ ロマ書の学び(117)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年一〇月三〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 七章は大変ややこしく、何がなんだか分らないとあせりを覚えるかもしれない。しかし、いくつかのポイントをつかんでいただきたい。使徒パウロはここであえて難しいこの教えを説くために、結婚の例をあげているのだ。

 婚姻届を出し、正式に結婚をした夫婦は一体となる、とイエス様は仰せになった。男女が一つの体になって合わせられるのである。故に、片方が別の男性、或は別の女性と仲良くなり、そちらに行ってしまうことは、不幸なことである。結婚によって「二人が一体となり、一人になる」ということは、夫も妻も半人前になることである。

 一人一人が結婚で一緒になることにより、1+1=2ではなく、1+1=1となる。そのため、この一を半分にすると、〇.五になる。〇.五と一がくっつくと、一.五である。1+1の結婚ではなくなる。

 片方が死ぬと、結婚の誓いはそこで終わる。夫が死ねば未亡人は、再婚しても誰もそれをとがめない。法律もそれを認めている。夫との契約は、死というものによって完全に解消されるのだ。そして新しい出発の再婚は、決して罪ではないし、神様に祝福されるものになるのである。問題は、結婚という形をとりながら、どちらか片方が別の人と結び合わさってしまうところにある。律法は、私たち人類をイエス・キリストの福音に連れてくる守役である、とパウロは書いた。

 私たちが、頭だけでイエス様を信じますと言い、教会出席をすることは、「自分自身」が生きた状態、律法という力の中に入っているのである。律法は、私たちの罪汚れを徹底的に指摘してくる。イエス様を信じて、古い性質はもう十字架につけられ、葬られ、今、私がいるのはイエス様の復活の体に合わせられる(=一体とされる)、ということである。英語では “identify(アイデンティティ)”という言葉で、イエス様と一体となって、永遠の生命に移されたということである。

 とすると、片方(私)が死んだのだから、律法は、「待てー!」といって私を追いかけてくることはできない。私が死んだことによって契約が解消されたからだ。律法は、私を自由に手放さなくてはいけなくなってしまった。そして今、私が生きているのは、律法の力によるのではなく、イエス様によって新しく造られた私が、キリストの言葉によって生かされてくるのである。

 これは一回聞いただけでは納得できないと思うが実は、良く知っている経験的な問題なのである。

「私はイエス様を信じ、これから一切悪いことから離れる決心をした。ところが、友達に誘われ、商売をしていくうちに、また悪いことを始めてしまった。私はなんて罪深い人間だろう。」と、お考えになった経験はないだろうか?

 兄弟よ、汝ら知らぬか。律法(おきて)は人のいける間のみ、之(これ)に主たるなり。 夫ある女は律法(おきて)によりて夫の生ける中(うち)はこれに縛(しば)らる。されど夫 死なば夫の律法より解(と)かるるなり。されば夫の生ける中(うち)に他の人に ゆかば淫婦と称(とな)えらるれど、夫死なば、その律法より解放(ときはな)さるる 故に他の人に行くとも淫婦とはならぬなり。わが兄弟よ、斯(かく)のご とく汝らもキリストの身体により、律法につきて死にたり。これ他 のもの、即(すなわ)ち死人の中(うち)より甦(よみが)えらせられ給(たま)いし者にゆき、神 の為に実を結ばん為なり。=iロマ書七章一〜四節) (続く)

◎ 暗誦聖句 ヨハネ伝一六章三三節
汝ら世にありては患難あり、然れど雄々しかれ。我すで に世に勝てり


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