◆ ロマ書の学び(118)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年十一月六日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 私たちは、イエス様を信じてからも、罪に負けてしまった、ということがある。そのことを七章は言っている。イエス様を信じてからもなお、私たちはつまずいてしまうのである。

 では、一体私が信仰を持ったのはなんのためだったのだろうか、という疑問がでてくる。それは、私の古い性質がまだ、イエス様の十字架とともに十字架につけられて死んでいないからなのだ。

 今から四〇年以上前、アメリカで日曜学校の生徒に罪のことを話すとき良く使われた例話があった。

 「インディアンの酋長がいました。彼は、しょっちゅうお酒を飲んであばれたり、人をいじめたりしていました。イエス様を信じてから、彼の生活は変わっていきました。このインディアンの酋長(しゅうちょう)は宣教師にこう言いました。『先生、俺の心のなかにはいつも白い犬と黒い犬がいていつも喧嘩をするんだ。』」と言ったというのだ。

 これを聞いて私は、うまいことを言うな、と思った。イエス様を信じてからも、白い犬、新しい性質と、黒い犬、罪の性質が喧嘩をしているのだ。白い犬が勝ったとき、私はうれしいが、黒い犬が勝つとぺしゃんこだ、と。いかに私たちの日々の生活を端的に表す例えであろうか。こういうたとえ話が私たちの心に入っているので、どうしても悪いことをすると、黒い犬が勝ってしまった、そしてイエス様に謝(あやま)り続けるという、嬉(うれ)しくない信仰生活になってしまうのだ。

 アメリカでは一時、「勝利に満ちたクリスチャン生活」という言葉ががよく言われた。しかし、実際にこういったものはあるのだろうか?

 かりに、真っ白な生地があったとする。結婚式の純白のドレスでもいいが、そこにホンの小さなしみがついた。人前では、あの人は立派なクリスチャンだと思われるだろう。しかし、じーっとそばで見てみると、黒いしみがついていて、隠れた罪がある。

 ところが、黒っぽい生地にちょっとしたごみがついても目立たない。この世にどっぷり浸かった世的な生活をしているクリスチャンは、多少、よごれた生活があっても目立たない。しかし、それは神様から見ると汚れた存在である。

 罪を赦されてイエス様と共に歩もうとすると、白い生地についた小さな汚れが目立つように、自分の罪深さが目立ってくると、パウロは書いているのだ。(続く)

 

◎ 暗誦聖句 第一ヨハネ一章三節
我らの見しところ聞きし所を汝らに告ぐ、これ汝らをも 我らの交際(まじわり)に与(あずか)らしめんためなり。

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