◆ ロマ書の学び(119)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年十一月一三日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 神様に近づけば近づくほど、自分の罪深さがわかってくる。神様、私を清めてください、と願って神様の方を向いて生活していくと、小さな罪も目立ってくる。

 パウロは「ああ、我、悩めるものなるかな。」と七章で言っている。七章の経験は、多くの学者がこれまで論争してきた。

 初代の教父(きょうふ)たちは、この経験は、救われていない人たちの経験だと言った。五〇〇年〜一五〇〇年の中世の教父たちは、これは、救われた人たちの経験である、と言った。結論は、私たちは、これは使徒パウロ自身の救われてからの経験であったろうと考えることが出来よう。なぜなら、それは、私だけでなく、多くの人が経験してきたことだから。イエス様に近づいていこうと思えば思うほど、失敗が目立ってくるのだ。そのことをくよくよしていると、なおさら自分は厳しい生活を続けていくことは出来ない、と戒律の虜(とりこ)となってしまう。

 私というものがまだ生きていて、自分の努力によって清くされよう、喜ばれよう、とするあまり、禁欲主義、戒律主義、律法主義になって、なおさら自分の罪が目立ち、自分はもうだめだ、と思うようになる。

 パウロはここで、最初に戻って、あなたは死になさい、と言うのだ。あなたは生きるために死ななければならない。あなたの古い性質が十字架につけられ、葬られ、神様から新しい命を頂かなければ、正しい信仰生活をおくることはできない。でなければ、いつまでも律法があなたを追いかけてきて、あなたを裁いていきますよ、と言っているのだ。そんな生活はいやだ。

 私たちの自我とプライドが取り去られて、かわりに自分の人生の中心にイエス様がきてくださる。そのイエス様と私が一体となることによって初めて、律法から解放され、失敗してもイエス様に謝ることができるようになった。すばらしい約束があたえられている。

もし己の罪を言いあらわさば、神は真実(まこと)にして正(ただ)し ければ、我らの罪を赦(ゆる)し、凡(すべ)ての不義(ふぎ)より我らを潔(きよ) め給(たま)わん。=@ 

      ヨハネ第一、一章九節

 私は皆さまに、イエス様と一体とされた自由、律法から解き放たれること、そしてイエス様にある喜び、力を味わっていただきたい。私は自分自身の過去の経験で長い間苦しんでいたから、よくわかる。いまでも失敗をすることがある。けれども、その失敗が、私をぺしゃんこにすることはない。なぜならば、イエス様はそれを御存知だからである。             (続く)


◎ 暗誦聖句 ヘブル書一一章六節A
信仰なくしては神に悦ばるること能はず、…
 

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