◆ ロマ書の学び(120)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年十一月二〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 私がその罪を言い表すならば、神様は真にして正しい方であるから、私の罪汚れを赦してくださる、との確信がある。そういう時に、私たちはイエス様の言葉を思い出す。「サタンよ、退け。私から手を離せ。」とイエス様は命令しなさいと、私たちにお命じになった。それは、イエス様だけではない。イエス様を信じる凡(すべ)ての人が誘惑を遠ざけることが出来るのだ。そして、悪魔の誘惑に打ち勝つときに私たちは新しい力を与えられてくる。強くされてくるのだ。そして、神様とともに歩(あゆ)むことの喜び、力を経験する。そうすると、また誘惑がきても、恐れはなくなる。

 「来(き)なば来たれ、試(こころ)みよ。」という賛美がある。どんな嵐がくるのか。私が戦うのではなくて、イエス様が私とともに戦ってくださる。「わがくびき(、、、)は負(お)いやすく、」とイエス様はおっしゃっている。イエス様が私のくびきをともに負ってくださるから私は、いつまでも悪魔の手先として動くことはなくなった。なぜならば、わたしは律法に対して死に、今生きている私は、イエス・キリストの恵みによって生かされているからである。

「最早(もはや)、我生(い)くるにあらず。キリスト我(わ)が内にありて生くるなり。」という確信が、皆さんを勝利へと導いていく。
 七章は、大変暗い谷底を通っていく。しかし、七章の終りで、パウロは一八節から二四節を書いている。

我はわが中、すなわち我が肉のうちに善の宿らぬを知る、善を欲(ほっ)すること我にあれど、之を行う事なければなり。

 わが欲する所の善は之をなさず、反(かえ)って欲せぬ所の悪は之をなすなり。我もし欲せぬ所の事をなさば、之を行うは我にあらず、我が中に宿る罪なり。

 然(さ)れば善をなさんと欲する我に悪ありとの法(のり)を、われ見出(みいだ)せり。われ中(うち)なる人にては神の律法を悦(よろこ)べど、わが肢體(したい)のうちに他の法(のり)ありて我が心の法と戦い、我を肢體の中にある罪の法の下に虜(とりこ)とするを見る。

 噫(ああ)われ悩(なや)める人なるかな、此の死の體(からだ)より我を救わん者は誰ぞ。

 

 二四節で文章が終わっていれば、聖書は無い。なぜ私たちが、パウロの経験を考えるかというと、実は、前半の七節から一三節においては原語は過去形で書かれている。一四節から二五節の原語は現在形で書かれている。現在形というのは、彼が今生きて、経験しているということなのである。

 「ああ、我悩める人なるかな。この死の体(からだ)より我を救わんもの誰(だれ)ぞ。」私は若いときから数え切れないほど、この聖句を口にしてきた。しかし、イエス・キリストの十字架につけられ私は死んだと、その信仰の核心に触れたとき、八章一節が大変大きな力となった。

この故(ゆえ)に今やキリスト・イエスに在(あ)る者は罪に定(さだ)めらるることなし。=@        
                  ( 続 く )


◎ 暗誦聖句 ヘブル書一一章六節後半
そは、神に来(きた)る者は、神の存(いま)すことと神の己(おのれ)を求む る者に報(むく)い給うこととを、必ず信ずべければなり

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