◆ ロマ書の学び(121)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年十一月二七日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 二〇〇一年九月にアメリカのニューヨークでテロによる大惨事があった。そのあとニューヨーク周辺の教会が大きな場所を借りて伝道集会を開いた時に、これまで見向きもしなかった一三〇〇名を超える多くの人々が集まってきて、そのうちの何人かがイエス様を信じる決心をしたという。

  一五年程前のことだが、フィリピンのレイテ島に大洪水が起こった。当時、私達が交わりをもっていた教会がオルモックという地域にあった。オルモックにはその頃、日本の味の素の工場があった。そのオルモックに台風が押し寄せ大津波が町を襲った。大きな坂に面し山に続く中間地点にある教会だが、その日は海から恐ろしい津波が吹き上げ、さらに竜巻が起こって海の水を市内にどさっと落とした。悪いことに山は、日本に材木を輸出していたためハゲ山になっていた。そのため三〇〇〇人を超える人が一時に水にのまれて死んだのである。私はこの教会にお見舞いと薬などを届けに行ったのだが、その悲惨な大洪水のあと二〇日位たった時でも海にはまだ異臭がただよい、全部の犠牲者を収容しきれないという状態にあった。

 それまで五〇人位しか集まっていなかったオルモックの教会に、毎週日曜日には五〇〇名を超える人々が集まったという。しかしそれはほんの二〜三ヶ月しか続かず、また以前と同じ五〇数名という人数に減ってしまったという。第一の理由は、多くのカトリックの寺院が、礼拝に来る人達にお米や衣類を配ったのでそれを目当てに行ってしまったらしい。

 人間は『喉もと過ぎれば熱さを忘れる』のたとえの通り、災害が起こると、「神様、仏様、何でもいいから助けて下さい。」と叫ぶ。けれども本当の信仰とは、皆さんが礼拝を守っているように、日ごろ何の大きな災害もない中にあってなお心を神様にささげて礼拝を続ける。これこそ本当の意味での信仰の姿ではないかと思う。大きな災害の時だけ「神様助けて。」と呼び求めるのは人間の常であるかもしれない。しかし、それはなかなか長続きしない。

 だから被災者が気の毒だという一時的な同情、或いは寄付金で終えてはいけないと思う。まさに被災地の人々だけでなく人類全体が、神様の前に膝をかがめ、本当に悔い改めて神様の祝福を取り戻すことが出来るように祈るべきであろう。
                     (続く)

◎ 暗誦聖句 ヤコブ書一章六節

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