◆ ロマ書の学び(122)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年十二月四日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 アメリカは建国時代、初代大統領をはじめ人々は、信仰を基盤として"In God we trust(我ら神に信頼す)"と言う文字を、コインに刻んだ。そういう素晴らしい建国の歴史をもつ国が、物が豊富になり、経済的に裕福になるにつれて、神様を忘れ、自分達の勝手放題の国に堕落してしまった。

 教会関係のニュースを見ると、現在アメリカでインターネットを使ったビジネスが盛んであるらしい。しかし、その六割が実はポルノを売るサイトだという。パソコンは大変に便利であるが、悪魔の道具にもなりうる。仕事中、あるいは、自分の家で、ボタン一つでポルノを簡単に見ることが出来る恐ろしい時代である。神様が一回だけでなく、繰り返し警告をお与えになるのは、イスラエルの歴史をみて学ぶところである。

 私たちはマスコミを通して様々な議論を聞く。多くがヒューマニズムの考え方、あるいは同情心、または聖書の断片的な言葉の引用である。テレビの討論や、新聞の投書を見る時、私達はクリスチャンとして、どう考えるべきであろうか?一番問題なのは日本人の議論に、神様をないがしろにした、あるいは抜きにした、議論が非常に多いことだと思う。『神様のご計画。神様のみ言葉。神様を礼拝する。』というものが、全くないのだ。

 ある人が、テレビで「私は宗教を勉強している。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教、様々な宗教を勉強している。神様はみんな同じだから。」と言うのを聞いて、これが多くの人の考え方だなあ、と思った。

 あの有名なビリー・グラハム伝道者でさえ「神様はキリスト教だけでなくして、他の宗教の人達も救う。」と言うようになった時代である。明らかにこれは、聖書の正しい教えからはみ出してしまった考え方なのである。

 神様をないがしろにし、神様を抜きにして、人間の同情心に訴えたり、または感情に訴えるメッセージが、世界中で聞かれる。

 そういう中に、私達はどんな時であっても、神様の御言葉に聞き従い、神様の御言葉が、「はい・イエス」と教えるならば、どんなに自分の立場が悪くなるとも「はい・イエス」と言わなくてはならない。神様が「いいえ・ノー」とおっしゃる時には、どのように自分の利益が、目先にぶら下がっていても、「ノー」と言わなくてはならない。これがクリスチャンの本当の意味での信仰であり、また、信仰の父、アブラハムが私達に示した信仰者の歩みではないかと思う。  

(続く)


◎ 暗誦聖句 コリント後書一二章九節「」内

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