◆ ロマ書の学び(123)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年十二月一一日号
         ▽ み言葉に生きる

 私たちはどんな時であっても、神様の御言葉に聞き従いたいと願うものの、朝から晩まで、生まれてからずっと、神様に召される時まで、信仰の高嶺、高い峰を歩き続けるということは、まず不可能であろう。或る時は熱心に神様を呼び求め、祈りお仕えし、次の瞬間には、あの偉大な預言者と言われたエリヤが、陥ったと同じように、大きな成功の後、「神様、もう私は、命を取り上げていただきたいです。」と、弱音を吐く状態が来る。信仰生活は私達の喜怒哀楽(うれしい、かなしい、さびしい)という感情に左右されてはいけない。信仰はあくまで事実である。『事実』、『真実』、『信仰』というものが、一線に並ぶ。

 落語家の話を五分或いは一〇分、三千円だ五千円だと払って聞いて「ああ、楽しかった」と思ったところで、自分の人生は変わるだろうか。その時に、わあーと、笑っても皆さんの人生を根本から変えることは出来ない。

 しかし、神様のお言葉である『聖書』の中の一つでも、心にしっかり受け止めて、これは全知全能の神様の御約束であると信じて、それに従って行動するならば、私達の人生は全く違った生き方へと変えられてくる。

それ神はその独り子を賜ふほどに世を愛し給へり…=@               ヨハネ伝三章一六節

 「イエス様をこの世にお遣わし下さったほど、私を愛して下さった。」と、その一言を聞くことによって、「誰も私を愛してくれないし、考えてもくれない。私は世界中六三億も人間がいる中で、一人ぼっちだ。」と嘆く人達にとって、人間をお造りくださり、全ての物をお造りくださった、創造主なる神は、こんなちっぽけな私をも愛して下さっているんだ、というその実感を持つならば、あなたはこれまで、皆を呪い、あるいはうらやみ、そしてまた自分が一人ぼっちだと嘆いていた生活は変わっていくのである。

 『信仰の力』は、神様のお約束の言葉にのっとった行動にある。神様に全てを委ねきった生活というものが、私たちの人生を変えていく。くどいようであるが、人間は誰もが人間性を持っている。

 『人間の体』は健康な姿の中に、誰もがもつ基本的な感情とか、欲望というものがある。お腹が空けばジャン・バルジャンならずとも、私たちはパンを手に取って食べたくなる。ジャン・バルジャンは、貧しいゆえにひとかけらのパンを盗んで一生、警察官に追われる身となった、という小説がある。    

      (続く)


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