◆ ロマ書の学び(124)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇五年十二月一八日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 私達は通常の健康状態であれば、動けば疲れるし、お腹も空いてくる。食欲は神様に与えられた人間の機能のひとつである。一生懸命仕事をし、あるいは活動して夜が来る。あたりが静かになってくると、当然人間の脳は休むように働いてくる。そして私達は休息をとる。これまた、自然の欲求である。

 そしてまた、それぞれ『種の保存』というかたちで、神様は男性が女性を愛し、女性が男性を愛する、という自然の感情を与えていらっしゃる。だから皆さんが、誰かを好きになる、愛するということは、決して罪ではない。人間の欲望というもの、性欲も決してそれ自体が、罪ではないのである。そうでなければ子孫を残す事が出来ないわけだからである。 神様はそれぞれに、必要な人間の体としての働きと機能、そしてまた、種の保存ということで、ちゃんとご計画を持っていらっしゃる。問題は間違った方法で、自分の体の欲望を達成しようとするところにある。

 使徒パウロは、コリント人への手紙の中でそのことを細かく教えている。私達はこのロマ書七章を見ていくと、あの偉大な伝道者、ユダヤ人だけでなく、異邦人に福音を述べ伝えた使徒パウロでさえ、実は日々の生活の中で、旅のつかれをはじめ、身心の求めに対して、大変弱かったということを知る。彼は「私が欲する善は、それをする事が出来ない。自分がしたくないと思う事をやってしまう。」と、肉の体には一つの法則があり、人間が肉の力に負けやすい者だという事を七章で書いているのである。

 心では神様を求める。本当に一生懸命聖書を読もう、お祈りしよう、奉仕をしよう、捧げていこうと思っても、現実の世界では私達は、足踏みをしてしまうのである。

 人間の社会には様々な誘惑があり、寝ていても起きていても、絶えず私達の心に浮かんでくる妄想や欲望がある。自分が楽(らく)をしたい、或いは働かないでお金持ちになりたいとか、さまざまな肉の思いがわいてくる。男女を問わず「ねたみの感情」というものは、たぶん生きている間、続いていく感情の一つではないだろうか。「妬(ねた)む」という字は面白い。女の心が固くなって石のようになるというのだ。

 この妬(ねた)みの感情は、決して女性だけでなく、男性にも起こってくる。 同じ職場の同期でありながら、一人はどんどん係長から課長、部長にと昇進していく。「同期に入っても、どうして自分はおいてきぼりを食うのだろうか」と、女性より男性の妬みの方がはるかに陰湿であって強いと言われる。(続く)

 

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