◆ ロマ書の学び(128)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年一月二九日号
         ▽ み言葉に生きる

  日曜学校で、子供達に話をする時に、私たちの心の王座(王様の座る大きな椅子)に、イエス様に座って戴(いただ)きましょう、と言う。心の王座にイエス様をお迎えするということは、私の日々の生活の考え方、仕事、勉強、家庭生活、あらゆる面においてイエス様が私の全ての支配者でいらっしゃるということである。何か事を決める時に、例えば、鬼の居ぬ間の洗濯などと、お父さんが出張している時にお母さんと子供達が集まって「こうしよう」と決めるわけではないのと同じである。

 イエス様を心の中心にお迎えするとは、あらゆる重大な決断をする時に、神様から知恵と導きをいただくということである。これがクリスチャン生活である。毎週日曜日に教会へ行く、聖書研究会に行く、祈祷会に出るなどは、クリスチャン生活の現われの一端にすぎない。

 クリスチャンは、イエス様を自分の心の中心、心の王座にお迎えして、神様の言葉を自分の生活の全てとする。聖書の御言葉が私の人生を支配する生活を求め、実行していくのがクリスチャンなのである。そうする事によって、イエス・キリストのご性質が私達の内に力を持ち、段々イエス様のお姿に似るように変えられていく。決して私がキリストだと言っているのではない。自分自身がキリストになるのではないのだ。イエス様の性質にあずかり、イエス様と同じ性質を持つようにされる、『キリストの性質を持つもの』それがクリスチャンなのである。『クリスチャン』という言葉は Christ(キリスト)の後に ian (イヤン)がついているが、これは性質を持つという意味である。

 クリスチャンであるあなたは「イエス・キリストの性質にあずかる人」なのである。これほどすばらしい聖書的な言葉はないと思う。わざわざキリスト者などと言う必要はない。「クリスチャン」とは、聖書の原語から入っていて、キリストの性質を分けていただいた者、すなわち「イエス・キリストが私の人生全てをご支配くださる」と告白する人である。

我キリストとともに十字架につけられたり。最早(もはや)われ 生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり。 今われ肉体にありて生くるは、我を愛して我がために 己(おの)が身を捨て給いし神の子を信ずるによりて生くる なり。=@      

   ガラテヤ書二章二〇節

 イエス様を心にお迎えし、神様のお言葉が自分の人生のあらゆる決断における基準となる。    (続く)

 

◎ 暗誦聖句 ピリピ書一章二七節A
 汝等(なんじら)ただキリストの福音(ふくいん)に相応(ふさわ)しく日を過(すご)せ

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