◆ ロマ書の学び(130)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年二月一二日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 使徒パウロは、肉的なクリスチャンということを考えていた。一番の例は、コリントの教会の人たちであった。彼らは、妬みと争いで明け暮れ、教会の中に、分裂、分派が起こっていた。「私は雄弁家のアポロさんにつく」「私はイエス様直弟子のペテロ先生につく」「私はパウロ先生につく」と、教会の中は分裂分派で大変であった。お互いにいがみ合っていただけではなく、教会には恐るべき罪があった。

 彼らは人からよく思われたいために、他の人の罪をたしなめることがなかった。見てみぬふりをしていたのである。教会には自浄作用というのがある。教会員の誰かが悪いことをするならば、神様の御言葉からそれを指摘され、悔い改めていくということである。仲の良いお友だち、或いは教会員が、明らかに罪を犯した時に、見て見ぬふりをすることは決して愛ではないのである。このことをしっかりと覚えていただきたい。

 仮にAとBという奥さんが、スーパーに買い物に行ったとき、Aさんが、まわりの人に気づかれないように、ポケットに商品を入れてしまったとしよう。Bさんは見て見ないふりをして、レジを通ってしまった。これは愛の行為であろうか。愛の行為ではない。「女性は生理になると、自分の意思では制御できず、お金があっても万引きをする人が多い」と心療科でよく言われるが、人の悪い事を見て、それを注意せず、み過ごすことは愛ではない。その人が公衆の面前で捕まるよりも、個人的に「奥さん、今入れた物を出して、精算しましょう。」と言って、それとなく皆の居ない所で注意するか、もしくは、自分が支払ってでも、何とかしようとするはずである。見てみぬふりをする事は真実の愛ではないのだ。

 肉の思いは死である。=@クリスチャンは、完全に肉の思いの虜(とりこ)になる事はないが、この世的な行動をとることはある。しかし、クリスチャンは新しい思い、イエス・キリストの思いを、心に植え付けられるため、肉の思いにとらわれることはないのだ。
肉の念(おもい)は神に逆(さから)う、それは神の律法に服はず、否したがうこと能(あた)わず≠ニ書かれている。

 イエス様を信じる時、私たちは、神様の思いを植えつけられ、神様を喜ぶようにされてくる。けれども、私達のこの肉の体は、古いアダムの性質を受けているので、毎日のように、やってはいけないことをやってしまい、失敗する事がある。そうした時に「心配いりません。あなたの罪は全てイエス・キリストによって始末されています」と神様はおおせになるのだ。   

  (続く)

◎ 暗誦聖句 箴言三章五節
汝こころを尽くしてエホバに倚頼(よりたの)め、己の聡明(さとり)に倚(よ) ることなかれ
 
 

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