◆ ロマ書の学び(133)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年三月五日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 女性は男性のように権力闘争をしたり、暴れたり、暴力を振るったりというような罪を犯さないと思うだろう。皆さんの口はどうだろうか。他人の悪口を言う、陰口をたたく、噂話に興じる、あるいは自分を良く見せたいと思って化粧をする。また、自分が家庭において守らなければならない夫や子供の世話に手抜きをし、「お父さん、そのラーメンで我慢をして。」なども罪なのである。心をこめてやらないことは相手への不忠実なのである。

 もちろん、女性に比べて男性は、目に見えるもっと大きな罪を犯す。クリスチャンは絶対に罪を犯さないとはいえない。その罪、けがれというものを私たちが認めない限り前進できない。

 「私は絶対パーフェクトだ、完全だ」という人間はいない。キリスト教の一派の中のある人たちには、そういう人たちがいる。特に清め派、ホーリネスということを求める人たちは、イエス様を信じれば自分たちは完璧で穢(けが)れなき存在だと考える。しかし、私たちはそうは思わない。ロマ書七章を見ると、使徒パウロでさえ自分の内側に潜(ひそ)む肉の弱さというものを痛感したのである。故に、心の中では神様の善を望むけれども、それをすることができない。私はなんと悩める存在であるか、と七章で訴えている。

ああ、我(われ)悩める人なるかな。この死の体(からだ)より我を救わん者は誰ぞ。≠烽オ、ここでパウロの手紙が終わっているなら、救いはなく、私たちは今日、教会に出席することは不可能である。しかし、イエス・キリストにあって救いがあるのだ。パウロは続ける。

我らの主イエス・キリストに頼(よ)りて神に感謝す。されば我(われ)、自(みずか)ら心にては神の律法(おきて)につかえ、肉にては罪の法(のり)につかうるなり。=@   ロマ書七章二五節

 自分の霊は、「神様の聖さに近づきたい。神様の性質にあずかる者として、日々平和な、人々に祝福をもたらすような生き方をしたい。」と願っている。にもかかわらず、人間は肉の弱さを持つ。疲れてくると眠くなり、眠くなるとだらしなくなってくる。昔、インドの王様が沢山の側妻(そばめ)をハーレムで抱えていた。昼間見るとすごく美しい女性ばかりだが、夜中にトイレに起きたところが、見るも無残なすごい格好で寝ていた。それで、幻滅をして彼は思索に入ったという。釈迦である。釈迦は人間の煩悩(ぼんのう)を解き明かした。別に女性の寝相が悪いというのではない。私たちは、自分をどんなに飾っても本質を消し去ることはできない。その本質が神様によって変えられなければならないのである。

    ( 続 く )


◎ 暗誦聖句 ピリピ書二章五節
汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。

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