◆ ロマ書の学び(134)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年三月一二日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 あなたの中心が、「自分」という自我(SELF)なのか、それともイエス・キリストが自分の生活の全ての原動力、中心となっていて下さるのかが問題なのである。ここが一番の鍵なのだ。私の人生を動かすのが「私」なのか、あるいは「イエス様」なのかということである。

 私が、聖書の片々(へんぺん)語句を使って自分の立場を良く見せようとしたり、信仰の熱い者だと思わせようとしたり、聖書のお言葉、キリスト教を、自分の都合のいいように利用したりする時には、「自己」、「自分」というものが中心に来ているのだ。しかし、最早(もはや)、我生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり。=iガラテヤ書二章二〇節)とイエス様が私の中心にあって生きてくださる、私の手足、時間も体もすべて神様に捧げ、神様が私を働かせて下さっているのだ、と信じて行動する時には、「私」が生きるのではなくして、私の原動力は「イエス・キリスト」であり、私の中心になってくださるのである。

パウロはそのことを良く分るように「reckon(レコン)」そう思いなさい、という言葉を使っている。

斯くのごとく汝らも己を罪につきては死にたるもの、神につきては、キリスト・イエスに在りて活(い)きたる者と思うべし。=@        ロマ書六章一一節

 イエス・キリストが十字架にお付きになったとき、あなたもアダムから受け継いだ古い性質も十字架に付けられて死んだと認めなさい。なぜなら、あなたの背負っている払いきれない借財はイエス様が払ってくださるからだ。「reckon」(@計算する、A〜を…だと考える)という言葉は会計帳簿に使う言葉である。キリストが十字架の上で私たちの負債、負い目を払ってくださった。だから、私たちの古い性質が十字架の上で死んだと認めなさい。実際には体は生きている、しかし、自分がアダムから受け継いだ古い性質はもう死んだと考えて行動しなさい。なぜならば、肉の思いは死なり、霊の思いは生命なり、平安なり。=iロマ書八章六節)とあるからである。       

     ( 続 く )

◎ 暗誦聖句  イザヤ書二八章一六節後半

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