◆ ロマ書の学び(135)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年三月一九日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 神様は、特高警察や秘密警察の警官のように、目を光らせてあなたが何時(いつ)悪いことをするかと追いかけ回すようなお方ではない。これをよく覚えてほしい。私が初めて教会に行ったときにもその思いが強かった。「バプテスマを受けクリスチャンになると、自分は何も出来なくなる。」という思いがあった。故に、バプテスマの決心を促(うなが)された時、「だめだ、ついて行けない、信仰を全(まっと)う出来ない」と思い、何ヶ月も引き延ばした。「バプテスマを受ける資格はありません。」とか色々言い訳を言って受けなかった。「イエス様を信じます」と言いながら、一番忠実な証となるイエス様に従うバプテスマを受けず、自分の力で喜ばれようとした。そのような時に、心の安らぎはなかった。 

 ハドソン・テーラーは、かつて中国に伝道に行った時、始めは宣教師として意気揚々と中国に入った。弁髪(べんぱつ)をし、中国人と同じ服装をして同じように振舞った。けれども彼は、医者として伝道することが出来なかった。とうとう、自分はこの中国において、自分の力でやろうとしたけれど何も出来ない、福音を語れないと悟り、神様の前にひざまずいた。「神様、私はもうできません。すべてお手上げです。何一つ出来ません。中国人の魂を救うことが出来ません。」と完全に降伏した。その時、ハドソン・テーラーは立ち上がることができたのである。

 「私の良い行いや、清さ、正しさで私が救われたのではない。イエス様の十字架を仰ぎ見た時に、私の罪けがれが赦(ゆる)されたのだ。イエス様がすべて背負ってくださったのだ。」と気付いた時、彼は自分の力、才能一切(いっさい)を振り切って「イエス様、あなたが私を生かしてください。」と言ったのである。これがハドソン・テーラーが中国伝道に大きく用いられた秘訣である。

 バプテストの有名な伝道者チャールズ・スポルジョンという人もそのことを強調する。「私は、自分の才能で説教し、人々を導き、大きな教会を建てようとしてきた。そして、行(ゆ)き詰(づ)まりを感じ、自分は何も出来ない、自分にはもうこれ以上続けることができない、伝道者を辞(や)めよう、というところまで追い込まれた」。

 彼がたどり着いたのが、我(わ)が能力(ちから)は弱きうちに全(まっと)うせらるればなり。=iコリント後書一二章九節)ということだった。神様の前に、私はもうだめです、と完全に降伏した心の状態になった時こそ、神様の力が表わされる。スポルジョンが立ち上れないと思った時にわが恵み、汝に足(た)れり。=i同一二章九節)と言われたのである。

(続く)


◎ 暗誦聖句 ピリピ書二章一一節

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