◆ ロマ書の学び(137)
私たちはクリスチャンだからとか、宣教師だから、牧師だからこうしなければいけない、と思って飾ろうとする。または自分の学んだことを皆に披露しようとする。これもまた人間の持つ罪の一つ、プライドである。皆に良く思われたい、うけたい、愛されたい、という思いからやる行動はやはり、クリスチャンの心の内側から出るビタミン剤の匂いなのである。私たちは、ロマ書七章のパウロが苦しんだ、本当に自分は何一つ良いものを持っていないと苦しんだ、その苦しみを共に味わうことが大事なのである。 私たちは、自分の良い行いや、親切な言葉、献金、祈りの言葉などによって神様に祝福されると思ってはいけない。何一つ神様に喜ばれるものを持っていない、ということが出発点である。「神様、私は自分を救うことが出来ません。」と完全に降伏する時、神様は「心配する必要はない。あなたの借金を全てイエス・キリストの十字架で背負った。あなたの借金は帳消しになったよ。」とおっしゃるのだ。今や、キリスト・イエスに在(あ)る者は罪に定めらるることなし。=iロマ八・六)である。 なぜならば、イエス様を信じた者たちは、生命(いのち)の御霊の法則によって、罪と死との法則から解放されるからである。ここでは、文語体の「法(のり)」、法則の法という字が書いてある。そして、七章においても「罪の法則」というのがある。「掟(おきて)」、神の律法(おきて)を喜べよ、とある。人間の体は、神様の善をそのまま実行できない、という法則がある。 肉によりて弱くなれる律法(おきて)の成(な)し能(あた)わぬ所を神は成(な)し給えり、即ち己の子を罪ある肉の形にて罪のために遣(つかわ)し、肉に於て罪を定めたまへり。これ、肉に従わず、霊(れい)に従いて歩む我らの中(うち)に律法(おきて)の義の完(まっと)うせられん為(ため)なり。肉に従う者は肉の事(こと)を思い、霊に従う者は霊のことを思う。肉の念(おも)いは死なり。霊の念(おも)いは 生命(いのち)なり、平安なり。=@ ロマ書八章三〜六節 五節、六節において鍵になる言葉がある。「思う」という言葉である。不思議なことに、私たちは説教を聞いていても、自分で聖書を読んでいても、頭の中にパーっと色々なことを思うことがある。だからパウロは、あなたの思いを虜(とりこ)にしなさい、捕虜にしなさい、と書いているのである。人間の肉の思いがワーっとたくさん出る時、それを全部とっ捕(つか)まえて捕虜にしなさい、というほどパウロ自身が肉の思いで悩まされたのである。
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