◆ ロマ書の学び(140)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年四月三〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

汝らは再び懼(おそ)れを懐(いだ)くために僕(しもべ)たる霊を受けしにあらず、子とせられたる者の霊を受けたり、之(これ)によりて我らはアバ父、と呼ぶなり。=@

   ロマ書八章一五節

 ロマ書八章一二節からは、「されば」と言う言葉で始まる。当然それは、これより前の部分を受けて「そういうわけであるから」と、くるのである。肉の法則、肉の思いで人生を歩む人々の行く末は、結果は死である。しかし、神様のくださった『聖書の教え、神様の聖霊の導き』に従って、日々の歩みを進めるならば、その結ぶ実は永遠の生命である。

肉の念(おもい)は死なり、霊の念(おもい)は生命(いのち)なり、平安なり

  ロマ書八章六節

 肉の思いは神様に逆うため、人間の生まれつき持っている性質というものは決して神様を喜ぶことも、また神様に喜んでいただくことも出来ない。相(あい)反する力である罪の力が、私たちに神様のみ心を行うことが出来ないように様々な妨げをしてくる。言うならば、私たちの足には重い鉄の鎖が、何処(どこ)に行くにもついて回る状態である。

 本当に自分が正しいと思うこと、良いこと、神様に喜ばれる事は何一つ出来ないという、不自由な生活である。私たちは聖書をなぜ読むのか、なぜ聖書を勉強して、暗誦聖句というかたちで聖句を心に貯えようとするのか。人間の生活の中にあって、私たちは黙っていても生活出来る。その生活を導く法則というものは、人間の生み出した知恵であり、人間の考え方による人生である。

 イエス様を信じない人であっても、お金持ちで、毎日楽しそうに生活しているという人を見るであろう。しかしそれは、ごく限られた短い期間であり、私たちは永遠という長い時の流れの中で、自らの位置、働き、そしてまた日々の歩みというものを決めていかなければならないと思う。

 神様が聖書に書かれた御言葉を通し、私たちの日々の生活を導いて下さるならば、当然その結果は神様が約束してくださった素晴らしい祝福の生活となる。

 大切なことは、私達がクリスチャンとして生活するときに、聖霊の導きに素直に「はい」と、お答えするかどうかである。聖霊が私の人生をコントロールして下さっているかどうかという事なのである。どんなに仲良く見える夫婦であっても、どんなに仲の良いお友達の関係であっても、そこにはお互いの自己主張、あるいは自我というものが働き、ぶつかり合う事も多い。  (続く)

◎ 暗誦聖句 ピリピ書三章一節
汝ら主にありて喜べ

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