◆ ロマ書の学び(141)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年五月七日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 結婚しながら三〇年間という間、一言も口をきかなかったという夫婦が、ギネスブックに載(の)っている。恐ろしい結婚生活である。夫婦であることの喜びは感じないであろう。形だけ、外側だけのクリスチャンはそれと同じである。生活の中で自分自身が、そして心の中が、神様の御言葉によって支配されているクリスチャンでありたい。真実のクリスチャンは何をするにも神様の御言葉を自分の物差しと考え、基準とする。「聖書」は私達の「カノン」である。

「CANON(キャノン)」とは物差しである。この神様の御言葉を通して、「私の考え方、生き方は正しいかどうか。寸法が足りないか。それともでっぱり過ぎか…」と、計(はか)っていく。歴史的に様々な試みを受け、またある時には政府によって禁止さえされた、このキリスト教の信仰が、人類の歴史の中にあって確かな歩みを続け、また全世界の歴史の中にしっかりと、神様の御心を着実に行いつつあると言えるだろうか。

 日本では、「寄らば大樹の陰(かげ)」という言葉がある。私達は日々の生活の中で、たえず罪の性質、或いは罪の世界からの誘惑を受ける。ショッピングに行ったところ、駐車場が狭く、いくらバックをしてもなかなか入らず、そのうちにガツンと別の車に当ててしまった、としよう。運転する人以外、誰もそばにいず、広い駐車場には人の姿が見えない。あなた一人しかいない。見れば相手の車はほんの少しへこんだだけだった。そういう時、あなたならどうするだろうか。「まあ、これくらい大丈夫かな。見つからなければいいだろう。」と言って行ってしまうだろうか。それとも心に痛みを感じながら、メモ用紙を取って「ごめんなさい。私が弁償しますから、後でご連絡下さい。」と書いて、電話番号を置いてその車にはさんでいくだろうか。まず、日本だけでなくアメリカでも、そこまでやる人は百人に一人いるかどうかであろう。誰も見ていなければ、自分達は謝ることをしない。

 もしあなたの車が、他の人にぶつけられ、ちょうどそこにあなたがショッピングを終えて出てきたとしよう。「あっ。」と思った時にどうするだろうか?「ちょっと、待ってください。車がぶつかりました。弁償してください。」と、必ず言うと思う。「まあいいでしょう。この位だったら大丈夫ですから。どうぞ心配しないで。」と言える人は余り多くないと思う。教会の車もよくぶつけられる。前方や、後、横など、たいてい駐車中にぶつけられているのだ。でも、ただの一回もぶつけた人から謝られたことがない。

二種(ふたくさ)のはかり、二種のますは等しくエホバに憎まる。=@  

     箴言二〇章一〇節

(注)二種類の尺度を使って他人をあざむくこと。 

 

(続く)


◎ 暗誦聖句 使徒行伝一七章二八節
我らは神の中に生き、動きまた在るなり

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