◆ ロマ書の学び(142)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年五月一四日号
         ▽ み言葉に生きる

 人間は生まれつき謝(あやま)ることが、大変難しい生き物だと思う。人間は謝ることが出来ないが、犬でも猫でも謝る事が出来る。犬は悪いことをすると、ちゃんと謝る。犬を飼っている人は、分かると思うが、頭をうーんと低くして、床にくっつけるようにして、そして飼い主をペロペロ舐(な)めて、ゴメンナサイという表情をする。普段よりはるかに、熱っぽく愛情を込めて、飼い主のところへ飛びついてくる。そして、自分のゴメンナサイという気持ちを表す。ところが、人間はそれをしない。怒られると思い、あちこち逃げ回って、お父さんが帰って来る前に、寝てしまおうとか、お父さんに言いつけられないうちに何処かに行ってしまおうと、いつも逃げることを考える。

 ロマ書八章の中に、私たちの生活に大切な、しかも信仰の最も根本となるところを見る。一二節から一五節にクリスチャンは罪の性質を自分の主人公としない、とある。

不敬虔と世の欲とを棄(す)てて、謹慎(つつしみ)と正義(ただしき)と敬虔とを もてこの世を過ごし=@ 

    テトス二章一二節

 仮にクリスチャンが罪を犯した時、その罪を犯したために「死ぬ」という事はない。クリスチャンが罪を言い表わさない場合には、神様が下さるところの本来の素晴らしい霊的な祝福を、逃してしまうという事である。祝福を、日々の生活から逃がしてしまう行動は、救われていない人と同じように、神様の目を逃れようとする

神様の目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。≠ニ、箴言一五章三節にある。

 「天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず」天の網は荒っぽく見えるけれども、絶対に小さなものでも見落とすことがなく、必ず裁きをする、という意味である。まさに旧約聖書の教えそのものであると思う。

 神様は私たちに、もって生まれた肉の性質というものをお与えになっている。お腹がすいてくると食べ物がほしい、と思うのは当然である。これは「肉の体の法則」だからである。のどが渇けば水が欲しくなる。当然の欲求である。しかし、こうした神様が下さった肉の体は、罪に負けやすい性質をも持っている。ご馳走を食べると、さらにご馳走が欲しくなってくる。

 初めのうちは誕生日のケーキが美味しいと思った。一年に一回ではなくて月に一回、一週間に一回、毎日食べたくなる、という風にして、だんだん私たちは思いがけなく体重を増やしてしまう。本当に食欲というものは歯止めがきかない。人間の肉の体には、私たちを破滅へ導くさまざまな力がある。      

               (続く)

 

◎ 暗誦聖句 ピリピ書 三章七節

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