◆ ロマ書の学び(148)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年六月二五日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 数年前、国連事務総長をはじめ、国連そのものがノーベル平和賞を授与された。けれども、世界の紛争は続き、貧しく飢えている人達が多くいる。国連の力は、外見的には非常に素晴らしい形に見えるが、必ずしもそうではないということがわかる。

 私達は、外見や目に見える形で、平和であるとか幸せというものを余りにも長い間バーチャル・リアリティみたいな形で、追い求めすぎたのではないだろうか。昔、日本では有名な詩人の歌が学校で教えられた。

「山の彼方の空高く、幸い住むと人の言う…」

大変な名作といわれた。山の彼方のずーっと遠くに、幸せがあると人々が言う、という事で始まる詩であった。幻を求めて人間は働き、そしてまた日々の生活を追い求めている。

 ロマ書八章六節に肉の念(おもい)は死なり、霊の念は生命なり、平安なり≠ニいう言葉がある。「肉の思い」それはどんなに親切な行為をしている時でも、どんなによく見えることであっても、発端は、人間の心の中から出てくるもので、それは神様の目には、ぼろきれと同じである、とイザヤ書に書いてある。

 人間の肉の思い、生まれつきの性質から出てくる実は、決して神様の国を造るものではない。神様は新しい生命の法則によって、クリスチャンが生きることを望んでいらっしゃる。

 明治・大正・昭和と続く多くの日本の作家は、聖書の中からテーマを取ったといわれている。様々な形で、ヨーロッパの作家も、聖書の中に書かれている人間の罪というものを取り上げた。ドストエフスキーの『罪と罰』、トルストイの『戦争と平和』、または三浦綾子の『氷点』。それぞれ聖書の中の「罪」という題材を取り上げて、人々の心に共通する罪の問題について考えるよう書いている。

 以前、新聞で大変ショッキングな出来事を読んだ。イギリスにおいて五年間ずっと、羊の脳の中に狂牛病が伝染するかどうかということを研究し、羊にも狂牛病が移ると発表する寸前になって、実はあの研究した脳は羊ではなく牛であったことがわかったというのである。世界の最先端を行くイギリスの狂牛病研究室で五年もの間、牛の頭を羊の頭と思って研究していたのである。人間の知恵や、人間のやることは完全と思っても、どこかに過ちが起こりうるのだ。神様を抜きにして人間が平和を求めても、それは不可能である。       (続く) 

 


◎ 暗誦聖句 ピリピ四章七節

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