◆ ロマ書の学び(151)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年七月一六日号
         ▽ み言葉に生きる

汝らは再び懼(おそれ)を壊(いだく)ために僕(しもべ)たる霊を受けしにあら ず。子とせられたる者の霊を受けたり。=@
                 ロマ書八章一五節

 クリスチャンは神様の家族の中に引き入れられたのである。自分の力でイエス様を信じたわけではないのだ。一見、自分が神を選んだように見えるが、実は神様の側から私たちを引き寄せて下さり、私たちが悔い改め、イエス様を信じる機会をお与え下さったのである。私たちは、神様のこのお招きがいつまでも続くと考えやすいが、救いの門はいつまでも開いているわけではない。

 聖書には、「ノアの箱舟」という出来事が記されている。ノアの箱舟に入る道は、ただ一つしかなかった。入り口はただ一つ、そしてノアとその家族、すべての動物のつがいが入った後、扉は閉じられてしまった。ノアがドアを閉めたのではなく、神様がそのドアをお閉めになったことに心をとめてほしい。その後、大雨が四〇日四〇夜続き、大洪水となり、地は滅んでいく。ノアの警告に耳をかさなかった人々が「助けて!」と叫んで、ノアに助けを乞い求めたが、ノアは内側からドアを開けることが出来なかった。イエス・キリストにある救いも同じである。

 神様が私達に真の神様を信じるように、と語りかけてくださっている時に、心をかたくなにして、「イエス様の事なんか知りたくない。聞きたくない!」と言って耳を塞(ふさ)いでいるならば、やがてその招きはあなたから遠のいていく。私達は神様の招きのお言葉を決して軽んじてはいけない。

 イエス様を信じようか、救いを求めようか、どうしようか、というときに、心の中に当然戦いが起こってくる。「待てよ。クリスチャンになると、あれもできないぞ、これも出来ないぞ。」と、これまで聞いてきた様々な抑圧的な事柄が思い浮かんでくると思う。けれども、「どうしても私は心の安らぎがほしい。魂の安らぎがほしい。何とかして人生の本当の幸福を手にしたい。」と思うときに、人の言う噂や、自分の考えてきたキリスト教がうんぬんよりも、「神様どうか私を救ってください。」という願いが強くなってくる。そして、「イエス様、私は罪深い者ですけれども、罪を赦(ゆる)し、救ってください。」とお祈りをする。その時に働くのは、皆さんの理性ではない。人間の力ではない。神様の聖霊が皆さんに語ってくださるのである。

今日なんじら神の声を聞かば、こころを頑固(かたくな)にする なかれ。=@     ヘブル書四章七節 (続く)


◎ 暗誦聖句 ピリピ書四章一一節BC


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