◆ ロマ書の学び(152)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年七月二三日号
         ▽ み言葉に生きる


  黙示録三章二〇節にわれ戸の外に立ちて叩く≠ニ記されている。私の心の扉の外側にはノブがない。取っ手がついていないのである。心の扉は、内側から、自分にしか戸を開けることは出来ないのである。イエス様は無理矢理「入ってやるぞ!」などと戸を開けようとなさらないのである。なぜ神様が人間をロボットにお造りにならなかったか、という理由がここにあると思う。私たち自身が、「神様、私を救ってください。」と心から願って、イエス様を呼び求めなければいけないのである。

 われに来る者をわれこれを拒(こば)まず≠ニイエス様は、仰せになった。「私の所に来る者を私は拒む事をしない。」だけでなく、神様は私たちの口を強制的に開けて「さあ、食え!飲め!」というお方ではないということを知っていただきたい。人は、馬を川辺に連れて行くことができるが、馬に水を飲ませることは出来ない。同じように、神様は私たちに強制なさることはない。「教会に行けば、素晴らしい福音が聞けるよ。」とか「教会にいくと霊の友達を得ることが出来ますよ。」と言うことを聞くだろう。でも最後は、あなた自身が神様に「私を救ってください。」とお願いしなくてはいけない。

 皆さんが心の扉をパーッと開いて、「神様どうか私を赦(ゆる)してください、私の内にお入りください。」と自らを神様の前にさらけ出す時、言い換えれば、自分のプライドも自我も全て捨てて、「神様はご存知ですから、どうぞ私の罪、穢(けが)れを赦してください。」とお願いする時に、神様は聖霊によって、私たちを神の子供として下さるのである。しかも、イエス様を信じることによって全ての物をお造りになった創造主を、「お父様」と呼ぶ事ができるようになるのだ。しかし、それで終わりではない。人間の生活の中には様々な苦しみがある。罪の戦い、経済的な苦しみ、或いは、肉体の病との闘い、愛する者を失う、など、人間はいつも、悲しみが多いのである。

 だいぶ古いトラクトの話である。

 ボロボロの着物で子供を背負い、若いのに、疲れ果 てた様子のお母さんがいた。彼女は仏教のお坊さんに、 「私は本当の幸せ、涙も苦しみもないものを求めてい ます。」と尋ねた。お坊さんは、「あなたはこれから 旅をして、世の中にそういう苦しみも、疲れも痛みも ない人を見つけ、私にも紹介して下さい。」と言った。 このお母さんは、旅を続け何年かたって戻ってきた。 「和尚さん、何処を歩いても苦しみ、悲しみのない人 は誰もいませんでした。」と話した。    (続く)


◎ 暗誦聖句 ピリピ書四章一三節
 


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