◆ ロマ書の学び(153)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年八月六日号
         ▽ み言葉に生きる


 確かにどこを歩いても、悲しみ、苦しみのない人はいない。人間はそこで諦(あきら)めるか、或いは、自暴自棄になるかである。しかし聖書は私たちが、もうどうしようもないどん詰りにきた時に、「救われる道がある」と記している。「かこむ」と言う字は、どう書くだろうか。まず、四角を書き、その中に井戸の井を書く。確かに四角い中に囲まれており、中に井戸が入っている。けれども井戸の真中は開いている。どんなに四方八方が問題で囲まれ、右にも左にも行くことは出来ない状態であっても、幸いなことに、真上が開いているのである。すなわち、神様を呼び求めるならば、どんな強い包囲網からも私たちは逃れることが出来る、ということである。どんなにつらい経験をしていても、「天のお父様!」と呼び求めるならば、神様は必ず私たちの叫びを聞いてくださる。

 子供を連れて半日もショッピングをしていると、疲れて、お腹がペコペコになるだろう。デパートの食堂の前に行くと、おいしそうなご馳走の蝋細工(ろうざいく)が沢山並んでいる。子供に「何を食べたい?何でもいいよ。」「うーん。どれにしようか。あれにしようか。」と、迷う。このお腹のすいた状態と同じで、神様に、あの事、この事、色々祈るが、霊の飢え渇いた状態の時には、どれに決めてよいかわからなくなる。どうしようかと迷っている時に、「あなたにとって今、一番必要なのは、これですよ。」と導いてくださるのが聖霊なのである。私たちが祈ろうとしても言葉にならない時、聖霊は執(と)り成してくださり、私たちに一番必要なものをお与え下さるのだ。

…我らは如何(いか)に祈るべきかを知らざれども、御霊(みたま)みずから言い難(がた)き、嘆(なげき)をもて執成(とりな)し給う。         ロマ書八章二六節

また人の心を極(きわ)め給う者は御霊の念(おもい)をも知り給(たも)う。=@  ロマ書八章二七節

 父や母を亡くしたり、愛する兄弟を失うという悲しい経験をお持ちの方もあるだろう。実際に自分の愛する人を失った時にあなたならどうするだろうか。祈ることは出来ただろうか。そういう切ない時には、まず、言葉にならないものである。どうやって祈ってよいかわからないのだ。けれども神様はその時に「私は、あなたのうめき(、、、)を知っています。あなたの悲しみ、苦しみを知っています。」と仰せになる。そして、私たちの祈りが「神様どうかこの痛み、悲しみから早く立ち直らせてください。」という言葉になるまでは、聖霊があなたの思いをわかってくださり執り成して下さるのだ。(続く)


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