◆ ロマ書の学び(156)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年九月三日号
         ▽ み言葉に生きる

神を愛する者、すなはち御旨(みむね)によりて召されたる者の為には、凡(すべて)のこと相(あい)働きて益となるを我らは知る。=@               ロマ書八章二八節


  この御言葉は多くのクリスチャンによって、様々な捉(とら)え方がされてきた。かなり自分中心的、自己流な、自分に利益をもたらすような解釈というものがされてきた。

 「すべての事が相働きて益となる。」とは、確かに一つ一つの人生の出来事が相働いて、「自分にとって」利益となるという事を考えやすい。しかし、この前半にある「神様のみ旨によって召された者」という言葉を見落としてはいけない。「神様によって召された者」すなわち、一つの大きな目的のために神様の側から働いて下さり、私たちを罪の世界から引上げて下さったという「神の選び」である。この大前提を覚えておいてほしい。

 「汝ら、我を選(えら)びしにあらず、我、汝らを選びたり。」と、イエス様は仰(おお)せになられた。人間が自分でイエス様を選んだのではなくて、神の側から私達を選んで下さったということが、まず第一である。第二は、「神様を愛する者」という言葉である。この二つを覚える必要がある。しばしば「神様の選び」という事では、神学的な論争が行われてきた。選びの教理をとる「カルビン主義」と、それに対して人間の自由意志を強調する「アルメニア主義」である。聖書ははっきりと、神様の「選び」を強調しているので、これを無視することは出来ない。

 使徒パウロは、「私が生まれる前から、母の胎内にいるときから、神様によって選び分かたれた者」、と書いている。あるいは、旧約聖書のサムエルも同じである。サムエルの母ハンナは、子供が生まれる前から一生懸命祈っていた。そしてその祈りに神様が答えて下さり、サムエルをお与え下さった。

 もちろん聖書には、自分の意思で神様の救いを呼び求める例も記されている。その二つを調和させることは、人間の頭では理解しにくいが、聖書の示す通り、私たちは神様に選び出されたことを確認することが大事である。また同時に、神様は、無理矢理嫌がる人間にイエス・キリストを信じさせることはなさらない。

 一方では、私たちは罪の世界にいて、自分自身の人生に失望し、生きる力を失った時、様々な宗教や思想がある中にあって、神様の側からの呼びかけに対して「神様、私を救ってください。」と、お願いする。この時に自分の意志が働く。神様は強制的に私達を信じさせようとはなさらない。      

         (続く)

◎ 暗誦聖句 テサロニケ前書二章四節AB


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