◆ ロマ書の学び(157)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年九月一〇日号
         ▽ み言葉に生きる


「神を愛する者」

 私達はイエス様によって救われた。神様の愛に対して心から感謝をささげ、目で見たことのないイエス・キリストを愛し敬い、その御言葉に従っていこうと決心した。神様を愛するという事は、自分にとって都合のいい時だけ神様を愛するのでも、自分にとって苦しい時だけ神様を呼び求めるのでもない。いつも神様に対して心を向け、神様に自分の心を捧げていく姿なのである。イエス様が、繰り返し弟子達に仰せになったのは何であろうか?「汝、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてキリスト教を勉強(、、、、、、、、)しなさい。」とはお教えにはならなかった。「主なる汝の神を愛すべし(、、、、、、)」と、創造主である真の神様を、「思いも心も意志も、すべてを捧げて神様を愛する」という事であった。

 「愛する」という事は献身を意味する。親は、自分が食べたい物を食べずに子供に与える。以前TVのニュースで、餓死寸前の子供たちの姿が度々放映されていた。やせ細って、どす黒い肌をして、目がくぼみお腹の膨(ふく)れた子供を見ると、私達も戦争時の厳しかった食料事情のことを思い出す。食べ物がなく栄養失調になると、やたらとお腹が膨らんできて、青白い顔になる。栄養失調の大きな兆候である。

 そんな子供に、出もしないお乳を一生懸命飲ませようとするお母さんの姿がこの日本にもあった。あんなやせたお母さんからどうやってお乳が出るのだろうと思うくらい、それはお母さんが自分の身体を犠牲にして自分の栄養を全部赤ちゃんに母乳という形で分け与えている姿であった。愛するということは、取りも直さず自分自身を、愛する対象に捧げきるという事である。私に永遠の生命をお与え下さるために、イエス様は十字架上で死んで罰を受けて下さった。実際に示された神様の愛に対して、私達は何をもってお答えすればよいだろうか。イエス様の献身的な愛に対して、私達も献身という愛をもってお答えしなければならないのである。

 ガラスの棒二本を一本につなげる実験をなさったことがあると思う。化学の実験でガラスをつなぐ、あるいは建築現場での、電気溶接だとか酸素溶接のことを思い浮かべていただきたい。片方のガラスだけを一生懸命熱して、真っ赤になってトロトロに膨らませても、もう一方のガラスは絶対に付かない。このガラスの棒を一本につなげるためには、両方とも同じように高熱を与えて、両方を暖めてやらなければぴったりとくっつかないのだ。ロマ書八章二八節においてもおなじである。(続く)

◎ 暗誦聖句 テサロニケ前書二章四節C
 

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