◆ ロマ書の学び(158)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年九月一七日号
         ▽ み言葉に生きる


 イエス・キリストはご自分の体を私のために下さった。十字架において罪を背負って下さった。私の身代わりとなって死んで下さった。その十字架に対して私自身がほんの少しだけお手伝いをするとか、ほんの少しだけ献金をするとかという状態では神様は決して喜ばれない。使徒パウロは別の書簡の中で、「もし私が気が狂うとするならば、イエス・キリストのためである。」と言っている。気が狂うほどに彼は、イエス様を愛し、イエス様に従おうとして、イエス様に献身をしたのである。皆さんはそれほどまでにイエス様を愛した、あるいは愛していらっしゃるだろうか。

 私達はどちらかというと、聖書の御言葉、あるいは神様の教えというものを自分のために使おうとする。これはいつの時代でも、どの国でも同じである。自分の都合のいいように聖書を使い、解釈し、自分の生活に何らかのプラスを求めようとするのだ。そのことは、オウム真理教においても行われた。聖書の言葉を断片的にとらえて、「ハルマゲドンの恐怖」という事で人々をあおったわけである。あるいは、ヨハネ伝と仏教を混合させた皆さんよくご存知の日本の宗教がある。そうした日本独特の宗教は、特にブラジルやペルーに行った日系人に大変受け入れられている。ハワイでもその信者が多くいる。

 神様を愛するという時に、神様の大きな愛に対して自分の側も献身的に愛し、また愛をもってお答えするということが大事なことである。

神は預(あらか)じめ知りたもう者を御子の像(かたち)に象(かたど)らせんと預(あらか)じめ定め給えり。=@ 

   ロマ書八章二九節

 この文語体は、「預(あらか)じめ」と「知る」という言葉が記されているが、この二つをつないで「予知」という言葉になる。キリスト教の神学用語では、「神の予知」という教義がある。神様があらかじめイエス様を信じて救われる人を選んでいらっしゃるというこの神の予知、予定論というところまで発展していく。

 「御子の形に象(かたど)らせんと預(あらか)じめ定めたまえり。」には、予定という言葉がある。予知と予定という二つの言葉が二九節に入っているのである。これがカルヴィン主義の原点になっている。二九節には、神様はあなたのすべてをご存知だとある。生まれる前からも、また今の生活も、これからもご存知であるというのだ。

 二八節の凡(すべ)てのこと相(あい)働きて益となる≠ニいうことは、つづく二九節、三〇節と大きなつながりがあるのだ。        (続く)

◎ 暗誦聖句 テサロニケ前書二章五節前半
我らは汝らの知るごとく何時(いつ)にても へつらいの ことばを用いず。
 

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